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「患者中心の医療」という理想を追い求める それは開祖の教えとも重なる奉仕の精神

2016/10/27

―今月と来月の2回にわたり、広島市で日々「脳の病気」と闘う医療法人光臨会 荒木脳神経外科病院の理事長である荒木攻さんにお話を伺います。荒木さんは広島大学少林寺拳法部OBで部の創立者でもあります。まず、少林寺拳法を始めた経緯を教えてください。

荒木 私は広島大学在学中に少林寺拳法を始めたのですが、私の大学時代は60年安保改正と70年安保改正の10年間にすっぽりとはまっており、学生、一般市民を巻き込んだ左翼勢力が一大大衆運動を引き起こした時期でした。学生運動も全学連から全共闘の時代へ、そして武装闘争を目指す過激派学生の時代へと移り変わり、社会情勢が極めて不安定な時期でした。そういう中で、自分の身は自分で守るための何かを身につけたい、と思っていたのです。

 ちょうどそのころ、書店で「秘伝少林寺拳法」の初版が出ていました。これが少林寺拳法開祖宗道臣師家との出会いでした。特に「秘伝」という言葉は魅力的で、読んで「これはすごい」と思いました。それで昭和40年の3月に、宗道臣先生に手紙を出して、直にお話を聞かせてほしいとお願いしたのです。そうしたら「来なさい」とお返事を頂きまして、学校の休みを利用して多度津に行きました。昔の管長公館で先生に直にお会いして1時間あまりお話を伺い、技の話もさることながら、先生の生き方に大変感銘を受けました。そしてその場で弟子入りをしたのです。

―その当時は、荒木さんのように地方から開祖を訪ねてくる人は多かったのですか?

荒木 そうですね。そのときも私と同じように弟子入りした人が、3~4名いましたね。しばらく多度津に滞在して修行させていただいて、少林寺拳法を普及するために皆、地元に戻っていくのです。当時の本部道場の二階が畳の部屋で、そこに寝泊まりさせていただいておりました。暖房もなく、障子の隙間から入る風の冷たかったことを覚えています。その隣は板壁で仕切られ、中野益臣先生と三崎敏夫先生の執務室があり、ぐっと腰をかがめないと出入りできない、茶室でいう躙り口(※)のような、小さな入り口でつながっていました。ちなみに私は本部道院に192期の入門です。3か月ほど頑張って修行をし、三級の資格を頂き、それで広島に帰ったのです。

※(草庵)茶室における客の出入り口のこと。狭い入り口なので、ひざでにじり寄るように入ることからこの名前がついたとされる。

―そのあと、広島大学に少林寺拳法部を設立したのですか?

荒木 はい。帰ってきてから半年くらいして、同志数名を集めて昭和40年10月、大学体育会に同好会設立の申請をしました。当初は練習場所に苦労し、初めは医学部の隣接したところにあった中国管区警察学校の武道場などを借りて練習していました。三級拳士で指導を受けなければならない立場と、指導をしなければならない立場と両方をこなすのは大変でした。大学同好会では一般人も交じっての練習で、指導者は平川勝先生、本田修先生(いずれも故人)でした。大学の練習がないときには呉海上自衛隊支部へ出かけ、市田一郎先生(故人)や三宅勇先生に指導を受けました。そうやって同好会として苦労しながら活動を続け、昭和42年12月には広島大学体育会の正式な部に昇格しました。広島でいえば、いちばん古い大学少林寺拳法部になりますね。

―開祖の言葉で印象に残っていることがあれば教えてください。

荒木 この会報誌のコラムで宗道臣語録を読ませていただいていますが、改めて読むたびに「こういうことを言っておられたな」と思い出がたくさんよみがえります。そして、その場ですぐさまそれを理解して行動に移すことができていたら、もっと自分が成長できていたかもしれませんね。でも学生だったころの私は、技のほうに夢中で、どちらかというと教えについては十分に咀嚼できていなかったのだな、という思いもあります。正直を言いますと、この病床数110床の病院(荒木脳神経外科病院)を設立するとき、開祖の思想が頭にあったわけではありません。開院前、私が岡山県の倉敷中央病院に勤務していた関係で、どんな病院をつくろうかと考えたとき、倉敷中央病院の前身の倉紡中央病院を設立した大原孫三郎の孫三郎伝を読み、決意したのが「患者中心の医療」を行い、「高度な脳神経外科の治療が提供できる専門病院」をつくることでした。その後、無我夢中で経営に携わり、少し落ち着いてきたころ、職員の教育の重要性に直面してきたのです。そのころから少しずつ(開祖の言葉を)思い出し、意味を考えるようになってきたのです。特に職員に「患者中心の医療」を説くとき、彼らがよく分かっていないな、と思うようになったのがきっかけかもしれません。

―といいますと?

荒木 医療というものは、常に患者さんを第一に考えるのが当たり前です。365日、24時間体制で急患が来たら断らない、100%は無理でもそういう姿勢を貫いてほしい、という思いが強くありました。相手のことを少しでも考えたら断れません。そういったことを感じるようになって、開祖がおっしゃった「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」ということが、ようやく実感として分かるようになってきました。今、毎年新しい職員が30人くらい入ってきますが、丸2日間みっちり研修を行っています。そのとき、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」という言葉を出させていただいて、必ず開祖の話しをしています。

―自他共楽ですね。

荒木 それは、すなわち奉仕です。その精神がないと、医療は全うできません。それが私の考えです。もちろん、それはなかなか実行できません。「患者中心の医療」というのは、言葉で言うのは簡単ですけれども、一朝一夕にはできない。永遠の理想です。ですから、理想を求め続けていかなくてはいけない。「患者中心の医療」の一例を挙げましょう。例えば、脳梗塞という病気がありますね。当院では、今年から脳梗塞の超急性期治療に挑戦しようということで、新しい取り組みを始めています。脳梗塞は簡単に言えば、脳の血管が詰まり脳の血流が損なわれるものです。血流の再開が遅れると、どんどん脳機能が損なわれていって脳の機能回復が悪くなりますよね。ですから患者さんが倒れてから数時間以内に、血栓を溶かす、あるいは血栓を回収して、速やかに血流を再開させることが必要なのです。

―そのスピードを徹底的に上げていこうということですね。

荒木 具体的には、患者さんに対して24時間いつでも脳血管内治療による血栓回収術を行っています。これは広島市内では私どもだけです。Door(来院) to Puncture(血管内治療開始)といいましてね、病院のドアを開けて入ってきたところから血栓回収術を開始するまでの時間を、最大速のスピードで行うことを目指しています。そのために最新の設備にも高額な投資をしますし、常に受け入れ体制の改善も行っております。

―まさに時間との勝負ですね。そこには個人の都合が入る余地はなく、我が身を捨てて事に当たらなくてはいけないわけですね。

荒木 そうです。夜だから診れないとか、休みだから対応しないとか、そういうことがあってはならないのです。発生したら数時間以内が勝負ですから。夜であろうが、早朝であろうが速やかに対応します。まだ月に数例ですけれどもね、確実にお役に立てると手応えを感じています。これも、「患者中心の医療」を実践する一例なのです。

―荒木さんが脳神経外科を志したのはなぜですか?

荒木 昭和30年代の後半に、「ベンケーシー」というアメリカのテレビドラマが人気だったのですが、その主人公が腕の立つ脳神経外科医でした。脳神経外科について知ったのは、このドラマがきっかけだったのかもしれませんね。ベンケーシーに憧れたというわけでもないのですが、外科医を志すにあたって最も高度なものに挑戦したいと考えました。それで脳神経外科を選択したのです。

―大学卒業後は、勤務医としてキャリアをスタートされたのですか?

荒木 大学、市中病院の勤務を経て開院する前に勤めたのは岡山県にある倉敷中央病院という病院でした。そこは、当時で病床数が1000床余りの巨大病院でした。そこで私は脳神経外科医として診療に携わったわけですが、やはり大病院ですから仕事は完全に分担されるわけです。手術をして、その患者さんの術後管理をして、また別の患者さんの手術をする……来る日も来る日もその繰り返しでした。ですから手術後にその患者さんがどうなったか、全く分からなかったのです。

―そこにジレンマを感じておられた、と。

荒木 そうですね。それで患者さんの治療をトータルに最初から最後まで診てみたいという気持ちが強くなりました。ちょうどそのころ、30代後半で独立して何かやってみたいと思っていた時、タイミング良く広島に戻ってきてこの土地で開業してみないか、というお話を頂いたのです。

―医療法人光臨会の理念に「全人的な医療と介護を目指します」とあります。全人的とは、身体や精神はもちろん人格や社会的立場など含めた総合的な観点から治療を行うことを意味するわけですね。

荒木 それが「患者中心の医療」につながると思っています。そういう病院を作ってみたいと考えたのです。  私が勤めた倉敷中央病院は、前身を倉紡中央病院といい、大原孫三郎という倉敷紡績の二代目社長だった方が設立したものです。大原氏は設計方針として「すべて治療本位とすること、病院臭くない明朗な病院とすること、患者を平等、公平に取り扱うこと、東洋一の理想的病院をつくること」という理念を掲げて病院づくりをしたそうです。今から100年くらい前に、こんな発想があったことにまず驚きますが、私はこの考え方にとても感銘を受けましてね、自分の病院の設計には、患者中心の医療のできる、病院らしくない、病床規模100床で、脳神経外科の専門病院として高度な医療が提供できる病院をお願いしました。そういう思いから出来上がったのが、この病院なのです。

―脳神経外科医として歩む中で、どんなご苦労がありましたか?

荒木 患者さんがよくならないとき、それが一番の苦痛でしたね。手術は、8時間も10時間も……時には20時間近くかかることもありました。しかし、結果として患者さんがよくならいと疲労感は倍増するのです。逆にいうと、患者さんがよくなれば身体の疲れなんて吹っ飛んでしまいます。どんなに時間をかけても、患者さんがよくなってくれることがいちばん嬉しいのです。

―手術といっても、病気の具合は千差万別でしょうし、どんなことが起きるか予期することも難しいと思います。

荒木 確かに病名は同じでも、実際に患者さんを診てみるとそれぞれに状態は異なります。人の顔が違うようにね、本当にさまざまなのです。

―そこに臨機応変に対応しなくてはならない……手術の現場はどんなに多くの経験を積んでも困難な場面に遭遇することがあるのですね。

荒木 もちろん、そんなに簡単な道ではないことは最初から分かっていたわけです。この道にチャレンジしたい! という強い想いがなかったら挫折していたでしょうね。

―チャレンジすることが荒木さんの人生なのですね。

荒木 そうかもしれませんね。ちなみにこんな話があります。脳卒中といえば、現在では私たち脳神経外科医が治療に当たるのが当たり前ですが、ほんの40年ほど前までは内科の先生が中心に治療に当たっていたのです。

―え、そうなのですか?

荒木 昭和50年に、佐藤栄作元首相が築地の料亭で脳卒中で倒れ、昏睡(こんすい)状態になられたことがありました。当時は、「脳卒中になったら、その場を絶対に動かすな」ということが当時の常識でした。そのため佐藤氏は築地の料亭でずっと治療を受けたのですが、残念ながらそこで亡くなられたのです。

 その後、次第に外科医が開頭による手術に挑戦していくようになり、脳神経外科医として枝分かれし、治療法も確立してゆき、CT、MRIといった頭の中を診断できる検査機器の発達もあり、脳神経外科の領域が急速に発展してきたわけです。更に現在では開頭せずに、患者さんの体に負担が少ない脳血管内治療がどんどん実施されるようになりました。

―そのような経緯の中で、現在の新しい常識があるわけですね。

荒木 そう。脳卒中で倒れたら動かすな、ではなく、「しかるべき治療のできる医療機関」に、速やかに搬送するのが今の常識です。佐藤氏が亡くなられてから40年余りたちますが、その間に医学の常識が変わってきているのです。それは脳神経外科医たちの挑戦によって生まれた変化でもあるのです。

―荒木さんのチャレンジ精神も、その一端を支えていたのかもしれませんね。

荒木 私の座右の銘は、「倜儻不羈」(てきとうふき)です。簡単に言いますと、誰にも御されずに、自分の理想とするところに向かっていく。強い意志を持って向かっていくのだ、と。そういう意味合いで捉えていただけたらいいでしょうね。

―開祖・宗道臣が私たちに求めた人としてのあり方と共通するように思います。

荒木 開祖は私たちに社会のリーダーになれといわれましたが、そのためには常に向上心を持ってチャレンジし続けないといけないですね。何か一つのものにこだわって、一つの殻に篭もってしまうと、残念ながらその人の成長は止まってしまいます。ですから私も、「患者中心の医療」という理想を求めて、学び続けなくてはいけないと思っています。それを職員に周知し、みんなのベクトルを合わせていく、そして実行してゆく。その地道な積み重ねが、理想を実現するためには重要なことだと思いますね。

―現状に満足するのではなく、常に学び続ける。取り組み続ける意志を持つことが大切なのですね。荒木さんのその姿勢が、そのまま、少林寺拳法の拳士たち、とりわけ未来を担う若者たちへのメッセージとなりますね。どうもありがとうございました。

(2016年7月7日 広島・荒木脳神経外科病院にて)

 

(荒木攻氏プロフィール) 1943(昭和18)年生まれ、広島県出身。医学博士、脳神経外科専門医・指導医、日体協公認スポーツドクター、日本脳卒中学会専門医、日本臨床脳神経外科協会理事、社団法人広島県病院協会監事、広島県病院企業年金基金理事長。1969年3月広島大学医学部卒業。同年4月広島大学医学部附属病院にて臨床研修開始。70年広島大学医学部第2外科教室入局。74年同教室助手(この間、75年第16次南極地域観測隊員として昭和基地に越冬)。76年広島大学脳神経外科教室に移籍。77年岡山県(財)倉敷中央病院脳神経外科勤務。86年荒木脳神経外科病院を開設、現在に至る。広島大学少林寺拳法部創立、初代部長。少林寺拳法正拳士四段。広島県少林寺拳法連盟顧問、少林寺拳法広島県大学同窓連合会会長、中四国学生少林寺拳法連盟同窓連合会会長。

荒木攻氏写真