vol.37 「武人」と「文人」

2014/12/01

aun_m_vol37「武人」と「文人」、広辞苑などの辞書を見ると「武人」とは、戦争に携わる者・軍人・武士・もののふと記述されている。また、「文人」とは、文学に携わる者・学問や芸術に携わる者とある。元来「武人」・「文人」という熟語は中国において対比的な表現として用いられている。「武人」の定義はほとんど変わりはないが、「文人」については学問を修め文章をよくする人であり、幅広い知識を有し、それらの教養をベースとして詩文の才も持ち合わせる者といわれ、更には士人、士大夫でなければならないとしている。まあ、このような話をすれば切りがなく、この紙面では到底書き切れないのでまた別の機会としたい。

さて、我々は信条の中で・法を修め、身心を練磨し、同志相親しみ、相援け、相譲り、協力一致して理想境建設に邁進す・と日々唱和している。今更ではないが我々は少林寺拳法の修行者であり、金剛禅の布教者である。ともすれば少林寺拳法の技術に魅了され、そこから抜け出せず、ひたすら修練する中で何とか武階は上がってはいくものの、本当の「武人」となりえているのか甚だ疑問である。

少々強引であるが、我々にこの「武人」と「文人」を当てはめて見ると、「武人」とは少林寺拳法の修練を究め、武としての少林寺拳法の技法を究めた者であり、「文人」とは己を修め金剛禅の教義を理解し、説いて実践行動する者、おおむねこのように定義されよう。各人の胸に手を当てて考えて見よう、我は果たして「武人」なのか「文人」なのか、即答できないのも否めない事実である。

開祖宗道臣禅師は・口八丁手八丁・でなければならないとか、単なる技芸の切り売りであってはならないと言っておられる。相手が武力をもって来れば、破邪顕正の拳をもってそれを制し、理論で来れば正論をもって制するよう己を磨くことであろう。

要するに我々は「武人」であり「文人」でなければならないのである。故に我々のいう「武人」とは少林寺拳法を修練し、護身練胆・健康増進・精神修養の三徳を究める者であり、「文人」とは金剛禅の教義を深く理解し、正しく教えを説いて開祖の志を見誤ることなく実践行動していく者であるといえる。

まずは手段としての少林寺拳法を修練することにより、「武人」を目指して自信と勇気と行動力に加え、慈悲心を育むことで自己確立の道から自他共楽の道を見いだし、更には「文人」として金剛禅の教義を熟知し、後世に正しく伝え広めていける実践行動が必要で、こちらも自信と勇気と行動力に加え、相手を思いやることのできる慈悲心も必要である。故に我々は「武人」であり「文人」でなければならないのであり、間違っても変人であってはならない。

自分が「武人」であれば「文人」を目指し、自分が「文人」であれば「武人」を目指し、生涯修行として努力精進し、バランスのとれた人間形成をしていかなければならない。皆さん頑張りましょう。
(文/川端 哲)