vol.39 「自己確立」と「自他共楽」

2015/04/14

aun_m_vol39自利と利他という言葉がある。一般的に自利とは自分の利益のこと、私利ともいい、利他とは自分を犠牲にして他人の利益を願うこととある。ところが仏教辞典で調べてみると、仏教的立場からやや違った解釈がなされており、以下のように訳されている。

自利とは自己の修行により得た功徳を自分だけのものとして受け取ること、また仏道修行によりよい結果をもたらし、己の成仏を目的とすることにある。利他とは自己の善行功徳によって他者を救済すること、他者に施すこと、また己の利益だけに止めないで他人の救済に限りなく尽くすことにある。そして、自利と利他の両者を完全に両立することが大乗仏教の理想とされている。故に自利利他とは自分のみが利益を得るのではなく、他人にも利益を与え、仏教でいう修行をして悟りを得、他人には仏法による教化で救いを施すこととなる。

このように仏教的な自利と利他は対義語ではなく一つの熟語であると考えられる。自利利他は自行化他、自益益他、自利利人ともいわれる。

さて、我々が常日頃目的としている「自己確立」と「自他共楽」について考察してみよう。我々は日々の少林寺拳法修練により、自信と勇気と行動力に加え相手のことを本当に思いやれることのできる慈悲心を芽生えさせ、揺るぎない自信を身につけることができるのである。当然のことではあるが、日々の修練により昨日の自分より今日の自分、今日の自分より明日の自分と、少しでも己自身をよりよく変革していくことこそが最も重要なことであり、その積み重ねが技術の上達(向上)になり、自信の裏付けにつながっていくのである。

しかし、我々は単に揺るぎない自信の下に「自己確立」さえすれば修行が完結するわけではなく、日々真摯な気持ちと誠実さを忘れず修行を重ねることにより相手のことを本当に思いやることのできる「自他共楽」の道を目指していくことができるのである。

ともすれば揺るぎない自信が身についたことにより、我々の修行が完結したと勘違いしてしまうが、それは言いかえれば〝自己満足〟でしかなく本当の「自己確立」ができたとはいえない。修行には終わりがなく、生涯を懸けて常に自分自身と向き合い、そして見つめ直していくことこそが我々の修行である。開祖宗道臣禅師が常日頃、事あるごとに「一生が修行である」と言われていたことの本意はここにある。

「自己確立」と「自他共楽」は別々のように見られるが、実は表裏一体であり、どちらか一方が欠けても我々の修行は完結しないのである。自利と利他が一体であるように、「自己確立」と「自他共楽」も一体であり、究極は「自己確立」=「自他共楽」となりえるのである。

生きているのも自分、生かされているのも自分であることに気付き、そこには他者の力により共に生きていることに喜びを感じることが、自力の中の他力であり、また他力の中の自力であるといえるだろう。

自分がいるから相手も成長し、相手がいるから自分も成長できるのだ。何だか禅問答のようになってしまったが、これが我々の求めている「自己確立」と「自他共楽」なのである。

皆さん、「自己確立」「自他共楽」、この二つの大道を迷うことなく、踏み外すことなく進んでいきましょう。
(文/川端 哲)