vol.30 ダーマ信仰について

2013/10/01

aun_m_vol30今回は、ダーマ信仰についてです。

“てんち くおん の おおみちから”であるダーマ。このダーマを我々は、礼拝しています。これはどういうことでしょうか? 礼拝詞から少し考えます。

我々は、自らの罪咎、それも、無始よりこのかた続いてきたもろもろの諸元たる罪咎(煩悩)があることを認め、悉くざんげし、三宝、すなわち、深く仏法僧に帰依して、その導きを正面から正直に受け、み教えに従いますと、礼拝、すなわち心に誓っているのです。よって、その上で、良き導きと加護を垂れさせたまえ、と。

さて、この“天地久遠の大みちから”(教典表記)の“ダーマ”ですが、“大みちから”ってどのような意味で捉えていたでしょうか。

礼拝詞の“大みちから”を道訓の“道は天より生じ……”と、重ね、“大道から”と解していることが、少なくない事実としてあります。礼拝詞は教典の根幹です。この認識さえ曖昧にしていることを我々は大いに反省しなければなりません(悉くざんげです)。どちらでもよいというほど適当なものではなく、しっかりと押さえておく必要があるのです。

“天地久遠”の“大御力”である“ダーマ”。我々はこのダーマを礼拝しています。

ダーマを礼拝とは、その分霊としてこの世に生を受け、個々の掛けがえのない人生を人とともに歩む、すなわち、自己確立と自他共楽の法門であることを認識し、真純単一に行じ、自己を高め、自己を真理(ダーマ)に導くことであるといえます。

開祖が青年期を過ごされた昭和初期、日本は人の命を紙一枚で召集し、大切にせず、多くの前途ある若者が戦争というものの中で命を落としました。人命を第一に行っていれば随分と戦局は変わっていたのかもしれませんが、事実としてそうではなかったようです。

お国のため=愛国心と受け止められがちですが、愛国心とはその国に住む家族や大切な人たちへの深い愛情の延長線上にあるものであり基本は人です。祖国日本を愛すということはそこに住む家族、隣人を愛し、幸せにすることでもあります。これは愛民愛郷の精神であり、イコール愛国心です。

ダーマを礼拝し信仰するとは、森羅万象にのっとった自己を認識し、研ぎ澄まされる自己を探求することであり、そのためには、高貴な心と深い思考の積み重ねで、決して挫けない、諦めない、不撓不屈の精神と道徳観を養うことであるといえると思います。

人は劣等感などにより自己憐憫に陥ります。自己確立は、強い心を養うことでもありますが、自分の弱さを認めそれを許す心を持つことでもあるのです。

フランクルは、『夜と霧』の中で、極限状態の中でも、他人に半分パンを分け与える人間がいたと記しています。

本当に強い人間は優しい人間であるともいえます。入門時、金剛禅の教えに触れ、目先がぱぁーっと明るくなった方々が多かったと確信します。

ダーマの分霊である自己を信じ、高め、生涯現役として修行者を貫くことを肝に銘じ、実践、実行したいものです。
(文/松本 好史)