Vol.16 世が世ならお手討ちでございますね

2015/04/16

宗道臣が、生涯を通して心を許した知己といえば、誰よりもまず、讃岐高松藩主の後裔(こうえい)、松平頼明(まつだいら・よりひろ)氏を挙げねばなりません。

素性の知れぬ一介の引き揚げ者・宗道臣が、縁もゆかりもない香川県の小さな港町・多度津で少林寺拳法を立ち上げるには、並大抵でない困難があったことは想像に難くありません。「どこの馬の骨ともわからんのが、若い者集めて“けんかの稽古”しよるげな」など、聞こえよがしの放言に、宗道臣は大声で、「そういうあんたらは、どこの鶏のガラかな」と切り返したといいます。そんな少林寺拳法の初期に、“宗道臣、ただ者ではないぞ”“拳法とやらも、ちゃんとしたもんらしい”の評価が生まれ、やがて、多度津はおろか香川県一円に広まるには、もちろん宗道臣の門下生たちの精進と口コミによるところ大ですが、「何せ、松平の殿さんが、えらい肩入れされよるげな」との風評に与(あずか)って力があったのは間違いないのです。

松平頼明氏と宗道臣との出会いは、1954(昭和29)年5月でした。当時の香川県知事・金子正則(かねこ・まさのり)氏の仲立ちにより、高松城の披雲閣・蘇鉄(そてつ)の間で、松平氏ほか旧・高松藩由縁の人々約30名に、少林寺拳法の演武を披露したのが初対面でした。

宗道臣が帯同した拳士らによる演武が始まりました。鋭い気合、豪快な突き蹴りや投げ……。参観者から賛辞や嘆声も聞こえます。演武を見ながら、宗道臣は少林寺拳法の特徴について熱弁を振るいます。と、宗道臣は次の組を制しておいて、「ところで、松平さん、受身(うけみ)はおできになりますか」と尋ねるのです。宗道臣は、とても勘の鋭い人です。解説をしながら松平氏の表情をも注視していたのでしょう。氏の表情に、チラッと半信半疑の色を読み取ったようなのです。「私は、中学、高校でずっと柔道をやっておりましたから、受身はできるつもりです」と松平氏。「じゃあ、やってもらえますか」。宗道臣は松平氏の前に立ち、右手を前に出して言います。「両手で、私のこの手を握って捻(ね)じ上げてください」。言われるままに松平氏が宗道臣の手を握ったとたん、氏の体は宙に舞っていました。龍華拳第一系の7、“巻小手”です。投げが見事に決まった瞬間、参観者席は凍りつきました。ほとんどが旧・高松藩時代以来の重臣グループだったからです。そのとき、宗道臣の朗らかな声が響きました。「お殿様、失礼しました。世が世なら、お手討ちものでございますね」。一同爆笑。緊張は一挙に解けました。

以後、両人は肝胆相照らす仲となり、終生変わることはありませんでした。それぞれの逝去後も、親密な間柄は次代の松平頼武氏と宗由貴にそのまま受け継がれ、現在に至っています。

「投げ飛ばされて、開祖(宗道臣)のことが好きになった」。宗道臣の逝去後、松平頼明氏が折に触れて、楽しそうに回想されるのを聞いた人は少なくありません。

鈴木義孝

1930(昭和5)年、兵庫県神戸市に生まれる。大谷大学文学部卒業、姫路獨協大学大学院修士課程修了。16年間の中学・高校教員生活を経て、69年より 81年まで、金剛禅総本山少林寺、社団法人日本少林寺拳法連盟、日本少林寺武道専門学校の各事務局長を歴任。金剛禅総本山少林寺元代表。現在、一般社団法 人SHORINJI KEMPO UNITY顧問。194期・大法師・大範士・九段。

鈴木義孝