• >
  • vol.32 修行の先にあるもの

vol.32 修行の先にあるもの

2014/02/01

目の前に続くまっすぐ延びた長い道。夕暮れ時には紅に染まる。夕日を背に母と二人でよく自転車に乗る稽古をしていた。デコボコで石ころだらけのその道は、これから続く計り知れない人生の道程を幼い私に静かに教えていた。

元来「修行」とは、雑念なく打算なく幼心のように遠い遥かな理想を見据え一心に「今」と向き合うことだと私は考える。そして、私たち金剛禅門信徒にとっての修行の礎は、少林寺拳法の修練と金剛禅の修学を内なるものとして鍛え極めることにあり、その内なるもの(自己)と、自己を取り巻く社会との関係(他者)の中で、自己を姿あるものにすることが修行の第一目的である。

およそ世の人は、誰もが何かの形で道を模索し行脚しているが、幸い私たちは「少林寺拳法」という磁石に引き寄せられ、正しい生き方や人としてのあり方を学ぶ機会を得て、そのことに感謝し人生の灯として歩むことができる。そうであるならば、開祖の教えを更に多くの人々に伝え広め、共に歩むことのすばらしさを共有しようとするのはごく自然のことである。「お父さん、帰りに風邪薬を買ってきてください……」「分かった、でも、今日は参座日だから、遅くなるよ」。こんな日常の中に金剛禅の修行はある。布教者も、修行者も、まして、在家信者としてはむしろ当たり前のことだ。開祖も、日々私たちを育み育ててくれる大いなる力の存在を認識し、他とともに生きることを喜びとするように語られた。

現代は、遥か太古の昔、釈尊が悟り達磨が座した日々とは大きく環境が変わり、人口も増え、生きるための雑多な仕事も格段と増えている。そのような現代社会にあって、釈尊の正しい教えを生活の中に生かし、人としての生き方を説いているのが金剛禅である。

金剛禅における世界の捉え方とその特徴は、仏教でいうところのいわゆる「空」の考え方に近いが、物質や意識双方をしっかりとした実体と捉え現実逃避を制限しており、また、この世界を自分の意識の中で認識し、目の前の世界が意識の産物であるという唯心論とも違う。無手の格闘術(拳法)を主行とし、まずは体術の習得を目指すとはいっても唯物論的立場を取るものでもない。拳禅一如が修行の特徴でもあるがデカルトのいう二元論とも大きく異なる。

私たちの信仰の対象である「ダーマ」にしても、キリスト教のいうところの絶対神でもなければ、創造主でもなく、その基本的な方向性とその特質は、物事が生成育成するということにあり、全てのものは「法」によって移ろい行くという現象と関係性の中で、あえて「自己」を前面に出し、理想社会の実現を目指すところに開祖の教えの特徴がある。また、「調和」は同時に冷酷さも兼ね備え、個を潰すこともある。私たちのいう「調和」は物理的「予定調和」ではなく、互いが生きる人的調和であることを心しなければならない。

時が後戻りできないように世界は諸行無常であり、とどまることを許されず、流動的で生成的な真理の中で、私たちは正の可能性を見いだし、それを信じて舵を取らざるをえない。ここに必然と正しい信仰と信仰心が芽生える。この世に生きながらこの世を見つめ、この世をすばらしいものにしようと努力することが「生きる」ことであり、生き続けることが「命」の本質でもあろう。私たちの修行の先には、一輪の花が静かに咲いているぐらいがちょうどよいのかもしれない。
(山城田辺道院 道院長 富澤 伸二)

道では
投稿大募集!受付メールアドレス  aun@shorinjikempo.or.jp