vol.23 士別三日、即更括目相待

2012/08/01

aun_m_vol23「士別れて三日、さらに活目して相待すべし」。人は、三日も出会わないと思いもよらない進歩をしていることの例えです。

無論、たった三日間で人が大きく変わるなんてことは、まずありえないことなのですが、この例えは久しぶりに会った相手が信じられないくらいに進歩していることを三日という時間で表しているのです。

この出典は「三国志呉志・呂蒙伝」からの抜粋です。

小説「三国志」を読まれた方はいまさらとお思いでしょうが、これは呉国で武力一点張りの将軍であった呂蒙が、主君に促され猛勉強をして有能な戦略家ならびに良識者になったことを久しぶりに出会った軍師の魯粛が驚いて、「呉下の阿蒙にあらず。(いつまでも呉国のやんちゃな蒙ちゃんではない)」と言わしめたときに呂蒙が返答した言葉なのです。

もう少し詳しく言うと、「士と呼ばれるものは三日も会わなければ変わっているものであり、しっかりと目を見開いて対峙しなければならない」との意味になります。

また、ここでいう士とは、言いかえれば人の上に立つ者、つまり指導者を指しています。

さて、女心と秋の空なんていいますが、男女を問わず、人の心はよきにつけ悪きにつけ変わるものです。

ところでわれわれ金剛禅の修行者・布教者としてはいかがなものでしょうか。

長い間修行を積み重ねてきて、相手から括目して見られるような人間に成長しているでしょうか。

目先の利害に走り、肩書や武階・法階に目移りし、己を見失ってはなりません。

開祖は人としての立ち居振る舞いに対しても常日頃から指摘され、われわれにその範を見せておられました。それは見識豊かで、どこか余裕のある立ち居振る舞いを心掛けることといえるでしょう。

常に自分自身に問いかけ、ダーマの分霊であることを自覚し、揺るぎない自信をつけ、今の自分を大切にしつつ、己をよりよい所に導いてやらねばならないし、又、進歩し続けなければならないのです。

これが金剛禅の修行であり、ひいては命の尊厳を明らかにして、生きている今を大切にしていくことなのです。

久しぶりに出会った相手に失望されないためにも努力、また努力するしかありません。
「兎と亀」の話ではないけれど、油断していたり相手をなめていたり馬鹿にしていたりしていると、気付いたときにはすでに手遅れで、相手は手の届かない所へ行っているのです。
そんなことにも気付かず、今どきの若い者はなどと批判ばかりしていると、自分自身が取り残されてしまいます。

括目して相待す、常にしっかりと目を見開いて正しく相手を見ていないと自分自身がとんだ恥をかくことになります。

自分自身胸に手を当てて自分は変わったということを自問自答して見ればどうでしょうか。変わったことを自覚することは難しいことなのですが、この問いかけをすることが大切なことなのです。

皆さん頑張りましょう。
(文/川端 哲)