vol.29 幸福運動についての一考

2013/08/20

aun_m_vol29数年前の7月、病院など通ったことのない妻が、数日前より体調を崩し、その朝、目の前で倒れました。救急車を手配し搬送されましたが、すぐに帰ってくるものと思っていました。しかし現実はそこから6か月の入院となりました。最初の40日は集中治療室で生死をさまよい、私もその間は、その前の待合ソファーで寝起きを共にしました。

今までの生活が一変し、選択の余地などなく、妻の命と向き合う日々となったわけです。

ここで、自らが思い知らされたことは、仕事で毎日遅く帰り、道院修練日は定時退社で、やはり帰宅は遅く、休日は、武専や県連盟(当時事務局)のことでほとんど自宅には不在だったわけですが、この全てのことが虚無のように感じられたことでした。

幸福運動。これは誰のためにやっているのでしょうか。常日頃、自己確立と自他共楽、そして、挫けない強さを養うことを指導している自分自身が「今ここ」をどう乗り越えるかを試されていると強く感じました。そして、判断力、対処しなければならないことが次々にやってきました。

病床の妻の前では無力である私は、今までやってきたことの自分への自問自答を繰り返しながら「負けるな、負けないぞ」と言い聞かせました。

我々は、「人づくり」、それを自らに重ねて、少林寺拳法という道楽(昔はよく耳にした表現です)に人生を懸けています。よって、このために仕事を一所懸命し、家庭も大事にと考えてはいますが、ロマンと称し、家族をないがしろにしていることも多々あります。私の兄弟子は、息子さんが生まれるとき、修練日だったので参座し、その後、病院へ……。今は反省しきりです。

自分がロマンとして行っているこのことも、家族をないがしろにして、省みず、家庭のことは一切妻任せというような道院長は、基本的に何か違うような気がします。

偉そうなことを書いていますが、私も結局は同類、妻の病気を目の当たりにして、初めて真剣に向き合えた気がしています。

幸福運動とは何か、これは我々指導者が心に刻み、いつも自らに問いかけることです。自らの周りも幸せにできない人間が、多くの人を幸福になどということ自体、ばかげているとつくづく思い知らされました。

我々は、まず自らの身近なところから幸福運動を広げることが第一なのかもしれません。

さて、毎日、病院で自問自答していたとき、前述の兄弟子が電話をくれました。「大変でしょう。先生のことだから、大丈夫だと思うけど、自分の納得のために、顔を見に行くわ」と言われて病院まで来てくれました。

そして、夏の暑い日でしたが、よく冷えた水饅頭を持ってきていただき、「何がいいか、一所懸命考えて、先生が好きな水饅頭を持ってきた。顔見て安心したから帰るわ。無理しなや」と言われ、すぐに帰られました。

この水饅頭の味、ありがたさ、これによって得た力、言葉では表せません。

ここから伝わる優しさや思いは、頑張れる糧でした。人の心の温かさ(質)を心から味わったのです。思いは深く、そして、さりげない、こんな優しさが人に力を与えるような気がします。
(文/松本 好史)