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心から尊敬できる上司に出会えた幸運。 その後ろ姿から学んだことが今の自分をつくった

2017/02/28

―東京大学少林寺拳法部OBであり、現在、豊田通商株式会社の取締役会長を務めておられる小澤哲さんにお話を伺います。小澤さんが大学を受験されたころは1970年前後の安保闘争の時代ですね、その辺りのお話からまずお聞かせください。

小澤 私が東京大学を最初に受験したのが昭和43年です。その年は不合格でした。その次の昭和44年が安保闘争の影響で東大の入試がなかった年です。ですから結果として2年遅れて入学したのです。

―大変な時代だったのですね。その中で東大に合格されて、少林寺拳法部に入部された。どんなきっかけがあったのですか?

小澤 正直を申しますとあまり深い理由はないのです。高校では野球部に所属していたのですが、父親の転勤により高校を転校して、新しい高校では部活動に入りませんでした。その後はお話ししたとおり2年間の浪人生活ですから、4年にわたって何も運動をしていなかったのです。ですから「何か運動をやりたい」という気持ちがとても強く、どこかの運動部に入ろうと思って思案していました。そこでいちばん最初に勧誘されたのが少林寺拳法部だったと、こういうわけですね(笑)。

―少林寺拳法部に入部して、いかがでしたか?

小澤 正直なところ、私は決して模範的な部員ではなかった‥‥あのころを振り返ってそう思うのです。もちろん練習は厳しかったですから、必死でついていきました。おかげさまで4年間のブランクも取り戻せたように思います。ですが、大学3年から東京大学でいうところの「運動会」の役員になりまして、練習に参加する回数が少なくなっていったんですね。運動会というのは、一般的にいえば体育会ですね。体育系クラブの統括組織として、学校に部費の予算の折衝をしたり、一般学生の運動促進、保有している寮の運営などを担っていたわけです。

―体育会の役員は誰かがやらなくてはいけませんし、それだけで忙しいですからね。

小澤 ですから他の先輩や同期のように、4年間のすべてを少林寺拳法に打ち込んだ、というわけではないのです。また私は股関節がとても硬くて、半跏趺坐(はんかふざ)が組めないのです。別にそのことで先輩から怒られるようなことは全くなかったのですが、仲間たちがかっこよく鎮魂行に取り組んでいる中で、あぐらに近いようなことすらできませんでしたから、すごく負い目を感じていました。さらに長距離を走るのも苦手でした。当時の練習はとにかく厳しくて、けっこう走ったのです。そこもつらかったですね。ただ、走る方はおかげさまで練習を重ねるにつれて少しずつ克服できましたけども。

―体育会というか、武道系のクラブは上下関係が厳しいですが、この点についてはいかがでしたか?

小澤 上下関係での嫌な思いは一切ありませんでした。先輩を恐いと思ったこともないです。語弊があるかもしれませんが、先輩方とは友達のようなおつきあいで、とても尊敬できる方ばかりでしたね。

 東京大学の少林寺拳法部は駒場の学生寮の中に部室がありまして、そこに部員たちが練習の前後、あるいは授業の合間に集まってきて、いろんな話をします。その中で先輩たちが、自分の将来について考えておられる姿を目にするんです。司法試験の勉強を始める、大学に残る、企業に就職をしていく‥‥それぞれの選択があるわけですが、その姿を見て「そうか、どこかで自分も将来を考えなくてはいけないときが来るのだな」、と感じたことを覚えています。

―とてもいい雰囲気だったのですね。

小澤 そうですね。そして何よりも、あの当時、お金に余裕を持っている人はほとんどいなかった。貧しい人ばかりでした。例えば部室の中に七輪を持ち込んで、夕食の魚を焼いているとかね。私もお金がなかったので、とても助けられました。

―先輩後輩含めた人間関係の中でいろいろと感じることがおありだったのですね。

小澤 中学・高校では学校と部活が生活のほとんどでした。非常に限られた中でみんなが同じようなことをやっていた印象があります。けれど大学に入ってみると、ある人は学生運動をやっている。ある人は女の子と遊び、車を乗り回している。そうかと思えば司法試験と公認会計士試験に一度に合格する人がいたり、ビジネスを始めてお金儲けをする人もいました。実に多彩な生き方があるのだな、とハッと気づかされたような、そんな気持ちになりました。とにかく驚くことばかりでした。

 高校時代までとは全く違って、親の監視があるわけでもなく、少ないとはいえ自由になるお金もある。とても楽しく心地よい学生生活でしたね。しかし、唯一悔やまれるのは、「もっと勉強しておけばよかったな」ということです。ほとんど授業に出た記憶がないので(笑)。

―多度津の合宿は参加されましたか?

小澤 1、2年のときに冬合宿で多度津の本部に行きました。12月、もうお正月直前の時期で、寒かったことを覚えています。大学3年からは運動会の仕事があったので合宿には参加していません。

―開祖には会いましたか?

小澤 はい。背のとても高い、体のがっしりした方でしたね。私の印象ですが、満州の馬賊とか、国士。そんなイメージを感じました。

 合宿では開祖の講話をお聞きしたのですが、平易な言葉でとても分かりやすく、すごく新鮮でした。といいますのも、その当時は東大紛争の直後でしたから、まだ学内を含めていわゆる左翼系学生の活動が活発な時期でした。そして、そのころの学生の意識としては、高邁な、難しい思想を語るのがいい、という生意気な(笑)風潮があったのです。マルクス、レーニン、毛沢東‥‥そういった方々の思想について語る人が多かったのですが、田舎者の私には彼らが何を言っているのか全く分からなかった。勉強してみましたけど、どうにもピンとこなかったのです。ですが、宗道臣先生のお話は「半ばは己の幸せを、半ばは人の幸せを」というフレーズにも象徴されるように、非常に分かりやすく、また実践的でもあり、とても共感できたのです。

 親を大事にする、師を重んじる、兄弟を愛する、先輩は敬う‥‥という当たり前で、しかし忘れがちなこと。日本人として持っていなくてはいけない倫理観、道徳観を諭されながら、その先には国のために何ができるか、社会のために何ができるか、という志がそこにはありましたね。そういうものに触れたことで、頭でっかちの人間にならずに済んだ。卒業したときに、しみじみとそう感じましたね。また社会人になってからも折に触れて感じるところがありました。

―小澤さんは東京大学を卒業してから、当時のトヨタ自動車販売(株)に就職されますが、どういった経緯があったのですか?

小澤 これも少林寺拳法部を選んだのと同じで、あまり深い理由はなかったのです。東京大学運動会の先輩が誘ってくださいまして、それだけの理由で入社しました。しかし今振り返ると、その企業の活動が、日本のため、人々のために役に立つものであるかどうか。自分の働きが社会に貢献しているという誇りを持ちうる企業であるか? まさしく開祖が常に日本の将来を考えていたことと重なると思うのですが、こういうことをかなり気にしていたと思います。

―トヨタ自動車は「モノづくり、車づくりを通して社会に貢献する」と2010年に策定されたグローバルヴィジョンにありますね。豊田通商の会長というお立場で、どんなヴィジョンを描いていますか?

小澤 私は豊田通商に赴任して1年半です。赴任したとき、まず最初に考えたのが「商社って何だろうな」ということです。これ、ひと言で答えるのはなかなか難しい。

―そうですね。

小澤 私はこう考えています。「商社というのは、世の中にある差、ギャップを埋めることによって、リソースの最適配置に貢献をし、社会の発展に寄与する」と。例えば熱帯地方で採れる農産物を日本に輸入することや、化石燃料や鉄、木材などの輸出入は『空間差によるギャップ』を埋めることと考えられますね。その最たる例ですね。あるいは農作物であれば、基本的には年中採れるわけではありませんし、その年の天候によっても左右されます。でも人々が消費する量は、生産量とは無関係なところで決まってしまう。そこで大規模な保管の方法を考えたり、天候に左右されない農業技術を持ってきて開発途上国で実施するなどして、この差を埋めることに取り組みます。これらも商社にとっては大きなビジネスチャンスですね。

 しかし、現在はインターネットによる情報の均質化、配送ネットワークの発展などによって、商社でなくても時間や情報といった資源のギャップを埋められる状況が生まれています。ですから次の成長戦略をどう描いていくか、各商社はそれぞれに悩んでいます。そこで私は日本の企業が持っている革新的な新しい技術と、その技術を必要とする産業を取り持つ。いわば「技術差」みたいなものを取り持つビジネスをわが社でできないだろうか? と思案しています。これもわが社にとっては大きなイノベーションですね。

―明確なヴィジョンを提示することがトップに求められますね。

小澤 そうです。成長戦略を明確に示すことはトップの責任です。トップ自らが課題を見つけ、大きな方向を自ら意思決定する。ここの部分はいわゆるトップダウンになります。しかしそれを実行するときは、一人では何もできません。社員たちはもちろん、外の協力者も含めて、目的達成に向けてプロジェクトをデザインしなくてはなりませんね。ここからは、それぞれの担当者の裁量で動く。つまりボトムアップです。トップだからといって、一人ですべてをこなそうとしても無理ですし、すべてを人任せにすることもまた違います。全体を俯瞰(ふかん)しながら自分が動くところ、人に任せるところのバランスを保つことが大事だと思います。

―小澤さんのお話を伺っていると、他者への敬意と、自らがなすことへの責任感をバランスよくお持ちだと感じました。そのような姿勢は、やはり仕事に取り組む中で身につけていったのですか?

小澤 私は会社に入って、本当に尊敬できる一人の上司に出会いました。もうお亡くなりになったのですが、その方の影響がすごくあると思います。その方が私に教えてくださった「7か条」をいつも心に留めて、仕事に取り組んできました。

―詳しく教えてください。

小澤 一つは「笑顔」です。この方の笑顔はとてもすてきでした。おとなしくて、大笑いをするような人ではなかったのですが。この笑顔はまねなければいけないと感じたものです。

 二つ目が「声を荒げない」。非常に穏やかな物言いをされる。どんな事態に直面してもそうでしたね。

 三つ目が「人の話をよく聞く」。これはなかなか忍耐力がいるのですけど、人の話を本当によく聞いてくださる方でしたね。

 四つ目は、「一つ一つのことに誠心誠意取り組む」。中国のことわざの中に「大事は皆小事より起こる。小事軽んずべからず」ということがあります。つまり、それが小さなことであっても、誠心誠意取り組んでいくことで、確実に成果が得られる、と。まさしくそれを実践しておられました。

 五つ目は「首尾一貫」です。この方は下に対する言葉と上に対する言葉がまったく同じでした。ともすれば上司を慮(おもんぱか)ったりして、言葉を歪曲(わいきょく)してしまいがちですけどね。自分が何を信じているか、そして何が会社にとって大事なことなのか‥‥常にこの視点から言葉を紡ぐので、一貫しておられるのです。

 六つ目は「部下に常に任せる」。どんなに若い人に対しても、「自分の言葉で、自分の責任として、組織を代表して、堂々と物言いをしてきなさい。そして決めてきなさい」と指示されていましたね。そして決めたことに対しては、100%支持してくださるのです。

 七つ目が「逃げない」。自分がサインをしたことは、どんな案件であれ自分の責任において処理をする、と。

―すばらしいですね。一つ一つが当たり前のことかもしれませんが、それを実践することがどれほど難しいことか……すばらしい成果というものは、何か特別な才能によって生み出されると思いがちですが、実はこういった地道な積み重ねが陰で支えているのだと思います。では最後に若い拳士、高校生や大学生に向けてメッセージをお願いします。

小澤 現在、日本を覆っている閉塞感に対する打開策は、やはり若い力ですね。言いかえれば、チャレンジ、革新。それしかないと思うのです。最近は大学のベンチャービジネスみたいなものがものすごく活発化していますが、あのようなことを含めて若い人が未知のことに対してチャレンジするマインドが昔以上に求められているような気がします。ぜひ幅広く勉強をしてチャレンジ精神を持ってほしいな、と思います。そのためには自分で自分の生き様の課題を設定し、考え、自ら意思決定をし、自己責任でやっていくことが求められます。

―まさに開祖がおっしゃった自己確立ですね。少林寺拳法の教えが、小澤さんの中に息づき、企業活動の中に生きていることを感じました。本日はどうもありがとうございました。(2016年11月25日 名古屋・豊田通商株式会社本社にて)

 

(小澤哲氏プロフィール)

1949(昭和24)年生まれ、石川県出身。1970年東京大学経済学部入学。1974年東京大学経済学部卒業。1974年4月トヨタ自動車販売株式会社(現トヨタ自動車株式会社)入社。2003年6月同社常務役員。2007年6月同社専務取締役。2010年5月同社取締役副社長(代表取締役)を歴任。2015年6月より豊田通商株式会社取締役会長に就任。少林寺拳法初段。