vol.15 心を伝える

2011/04/01

aun_m_vol15内修の主行たる鎮魂行。この鎮魂行における教典唱和は我々金剛禅門信徒にとって重要なカテゴリーであるが、ある道院長は教典を新入門の子供たちとともにゆっくりと後に続く感じで唱和し、主座のはっきりとした口調を耳で聞きながらそれを腹に収め、共鳴する感じの唱和となるように口伝として教えるという。

私も、その後実行しているが、聖句の大いなる意味と、そこに込められた法の真理を言葉の中に込めてゆっくりと抑揚をつけずに唱和すると、最初はそれを聞いているが、何回目かになると先輩につられて少しずつ唱和するようになる。

聖句から始まり、誓願、礼拝詞、そして、修める法の道しるべたる道訓となり、日々の精進の指針となる信条まで、20回くらいの参座で小学1年生でもほとんど唱和に加わるようになり背筋も伸びてくる。

そして、半年くらい経過したころには、道訓の中の言葉について質問が出る。

「ひとのなんをすくい きゅうをたすけ おしえをたれてひとをみちびき こころをいたしてみちにむかい かをあらためてみずからあらたにし あくねんをたちて いっさいのぜんじを しんじんにぶぎょうすれば……」、私の言葉が、ここではよりはっきりと聞こえ、「ひとみずといえども」以降で優しい穏やかな感じになるという。

言葉に込めた思いの力であろうか、自分自身の魂に問いかけるように行じている鎮魂行が唱和の中で真理として少しずつ伝わっていることを実感した。

自己確立、自他共楽の法門たる少林寺拳法は、鎮魂行で自己に内在する真理を目覚めさせ、易筋行で自己の可能性と人への思いやりを自覚し、これらの漸々修学により自らを修める行であることを実感する。

真理の核心は不立文字であるゆえに、言葉の行間やその奥は、熱い心で伝えることの大切さに気づく。

心を伝えるとは、まっすぐに張った弦の共鳴であるともいえるのではないのだろうか。

(文/松本好史)