vol.14 心外無法

2011/02/01

aun_m_vol14西のノーベル賞と称される京都賞。毎年6月に受賞者の決定があり、11月に国立京都国際会館で受賞記念講演会が開催される。私の門下に思想・芸術部門の選考に関わる拳士がいた縁で2002年から毎年受賞講演を聴講させていただいているのだが、03年に思想・芸術部門で受賞された、日本を代表する古典演劇「文楽」の人形遣いであった吉田玉男氏(06年没)の講演が印象に残っている。

文楽の人形は、面遣い、左手遣い、足遣いの三人が三位一体となり人形に魂を吹き込む。文楽は世界で最も高度で洗練された人形劇と称賛され、この人形遣いの修行は正に行である。

弟子になることを許されると、見習いから次に、足遣い、左手遣い、面遣いと順に格が上がっていくのだが、足遣いは当初・足持ち三年・といって椅子に座った状態が続く演目で、静止したままで足だけを持っている役を何年もしなければならない。足持ちだけなので新米でもできるのだが、緊張感や下から手で受けて足を動かさずに持っているだけの役どころの中で、面遣いや左手遣いの息遣いまでを自得する。言葉はなくても伝える側と伝わる側との心が一致するのであろう。そして、このように漸々修学し、左手遣いまで昇格すれば、後はチャンスさえあればもういつでも面遣いができるという。習わずとも自然に自得し、その心も同時に学ぶのであろう。

我々の修める法も同じではないだろうか。深く想い、開祖の志を息遣いで感じ、それをまた息遣いで伝えることによってそれぞれの中に自然に法が芽生え育つ。心は宇宙と同様に無限の広さがあり、その奥深くまで思うことによって心の中の法を通して先師に繋がる。心外無法、それぞれの中にもともと法がある。それを自覚するのは自分自身しかない。

「はなたれも次第送り」。最初は何もわからないはなたれ小僧でも時を得れば自らが自得ししっかりしてくるものである。

「くどくど言わずとも次第に一人前になる」。伝える側がぶれていなければ、次第送りで伝わる。氏の言葉は、指導者の基本姿勢であると自戒する。

(文/松本好史)