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vol.21 拳禅一如の道

2012/04/01

1963年5月、少林寺拳法に出会い、技の魅力に惹かれた。そして開祖(管長)を知り拳禅一如の道を通して教えとしての金剛禅を学び、開祖の生きざまと信念を見聞することができた。開祖の全身全霊を込めた人づくりに懸ける「志の高さ」と「思いの強さ」が人を惹き付け、開祖に共感していく先輩方の背中を見て自分もと思い、いつしか仲間として歩いてきた。開祖だって心臓発作を抱えていろんな悩みがあったと思う。療養して一縷の望みに懸けるという選択肢もなかったわけではないと思うが、少林寺拳法の創始者、第一人者として「ワシは壇上で死ねたら本望だ」と最後の最後まで金剛禅を伝え、「人間死ぬまで修行だ」と言って、そのとおりの実践をみずからして見せた。この姿を目の当たりにしたすべての拳士が気力を充電させて奮い立ったものである。言い続けたのは、「一生懸けての『人間完成の行』修行に終わりはない。金剛禅指導者としての向上を目指し、みずから成長していくにはどう行動しなければならないのか。真の指導者を目指せ」と、この「魂」の叫びがわれわれに「人づくりの道」への使命感と組織的団結、結束力を生ませたのである。「年々歳々、新たな発見や閃きを目指し、みずからの可能性を信じて努力し続け、尽きることのない道を歩もうではないか」という呼びかけに、身震いをするほどの感動が身体の中を流れたことは忘れてはなるまい。

一歩一歩、一日一日の積み重ねが1週間であり、1週間の積み重ねが1年、2年と続くのである。この積み重ねが漸々修学の道なのである。われわれにとって身近なリーダー像といえば開祖である。今、少林寺拳法があるのは開祖が仕立てた金剛丸という船が航海しているからである。船の行き先は決まっている。われわれはこの船に乗客としてではなく開祖の「志の高さ」に感化され、みずから漕ぎ手として志願し、船に乗ってきたはず。だとしたら船を泊まらせたり、方向を変えることなく次世代の漕ぎ手にキチッとバトンタッチすることがわれわれに残された仕事といえる。

今、拳禅一如の道を歩いてきて何が得られたかと問われれば、一、人間完成に向って前向きに取り組む向上心。二、ダーマの分霊としての人間の本性の覚醒を修行によって捉える求道心。三、困難があればこれを乗り越えようとする不撓不屈の心。四、苦難があればつらさを我慢して止むのを待つ忍耐の心。五、自他共楽として半ばは相手のことを考えられる心。だといえる。司馬遼太郎の本の中で「志」について書かれているのがある。男子の価値は「志の高さ」によって決まるが「志」を貫き通すことがいかに難しいことか。大義に生き、大義のために命を捨てるという生きざまを通すことはその道を突き進んだ人にしかわからない。そしてその志の高さをいかに貫き通すかという工夫は格別なものではなく、日常茶飯の自己規律にあるという。箸の上げ下ろしにも、物の言い方、人とのつきあい方、息の吸い方、息の吐き方、酒の飲み方、遊び方、ふざけ方、すべてが志を貫き通すための工夫によって貫かれておらねばならない。

大事の前の小事という諺があるが、大事の前にはどんな小事も油断するなの意味であり、「志」を貫き通すには最も必要なことだというのである。開祖の遺された拳禅一如の道は漸々修学の道であり、己の「志」を貫き通す道でもある。

(弘前城北道院 相馬十九三道院長)

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