株式会社ヨシダ代表取締役社長 吉田信行氏に聞く

2016/02/25

学生時代に全力を尽くした経験が、歓びを分かち合った仲間が、人生を支えてくれた。

 井上 今月と来月の二回にわたって株式会社ヨシダの代表取締役である吉田信行さんにお話を伺います。「金魚の吉田」として知られるこちらの会社は、なんと江戸時代に創業されたまさに老舗中の老舗です。その歴史の長さに驚きつつ、金魚というものについて、詳しい知識がない読者も多いと思います。まずは簡単に金魚の歴史について教えてください。

 吉田 江戸時代から続いている金魚屋は東京では私どもだけになりました。これも時代の流れですかね。さて、金魚は元々は中国で誕生しました。3〜5世紀頃、中国南部の揚子江流域に生息していたフナの仲間が突然変異して、ウロコが赤い「緋ブナ」が生まれ、そこから金魚の原種が生まれたと言われています。これがのちに1810年頃から「和金」という名で呼ばれるようになるのです。中国ではこの和金を元に、長い年月をかけて繁殖を繰り返し、異なる色や模様、体型の金魚を作ってきました。それが日本に伝えられて、我が国でも多品種独自の発展を遂げたのです。

 井上 金魚が日本に入ってきたのはいつ頃ですか?

 吉田 一般には室町時代と言われています。文亀2(1502)年に、中国(当時の明)から泉州左海(いまの大阪府堺市)に和金が伝えられたのが最初と言われています。当時はたいへんに高価なものでした。それが江戸時代になって、戦乱の世が終わると、市中でも金魚が売られるようになったのです。1670〜90年代には、東京・上野の不忍湖畔の近くに、真鍮屋という名の大きな金魚屋があって、金魚を売っていたことが記録に残されています。

 江戸時代半ば以降になると全国で金魚の養殖が盛んに行われるようになり、金魚の値段が下がり、少しずつ一般の人々にも普及するようになっていきます。江戸時代後期には、桶たらいに金魚を入れて、天秤棒にぶら下げて、金魚を売り歩く商人も現れました。これは昭和の時代まで続き、リヤカーなどで売り歩くスタイルに変化します。「きんぎょ〜え、きんぎょ!」という掛け声で売り歩く姿を記憶されている方も多いのではないでしょうか。ちなみに私どもの初代が小石川(現在の東京都文京区)で金魚商をはじめたのは、文政2(1819)年のことです。

 井上 ということはもう200年近く続いているということなんですね。すごく伝統のある会社なのですね。吉田さんがその6代目ということですが、若い頃から家業を注ごうとお考えになっていたのですか?

 吉田 自分は三男ですから家業を継ぐという発想は全然ありませんでした。当初は2番目の兄が金魚のことはすべてやっていて、私は日本動物薬品株式会社という観賞魚向けの医薬品を販売する会社を立ち上げたのです。ところが2番目の兄が48歳の時に亡くなりまして、そこから金魚の仕事もひきうけることになったのです。

 井上 そういう経緯があったのですね。さて、吉田さんは明治大学少林寺拳法部のOBでもあります。現在も明治大学の現役拳士たちを支援しておられ、株式会社ヨシダ、日本動物薬品株式会社にも少林寺拳法の拳士が社員として在籍しておられます。吉田さんが少林寺拳法を始めたきっかけを教えてください。

 吉田 もともと私は野球少年で、中学では野球部に所属していました。当時明治大学付属明治高校・中学校は、なかなかの強豪校だったのです。私が中学3年の時、明治高校が春の甲子園大会でベスト4まで勝ち進みました。そして夏の東京大会では決勝戦で王貞治さん率いる早稲田実業を大逆転で破り、夏の甲子園に出場したのです。私たちも球拾いですが、一緒に練習させていただき、甲子園へ連れて行ってもらいました。

 井上 すごいですね。吉田さんもそれを間近で体験されたんですね。

 吉田 そうです。でもね、このおかげで各地の中学校から優秀な選手たちが明治高校に集まってくることになるわけです。甲子園のベスト4ですからね。それで野球部の監督から「お前たちは明治高校に行っても、野球をやるのは無理だろう。やめたほうがいいんじゃないか」と言われたんです。

 井上 そうですか〜。酷なことですが、厳しい現実が待っていたわけですね。

 吉田 それで明治高校ではバレー部に入りました。そこでは関東大会に出場することができました。ですから、大学に行ってもバレーをしようと決めていたのですけど、高校三年生のときの夏の合宿に、明治大学の少林寺拳法部の人が来たんです。それで「お前、ちょっと持ってみろよ」と言われて手を持ったら、投げ飛ばされるわけです。胸ぐらを掴んでも片胸落でやられてしまう‥‥固められて一歩も動けなくて、すごく驚きました。それで大学に入ってから、バレー部の仲間2人と一緒に少林寺拳法部に入ることにしたのです。

 井上 明治大学の少林寺拳法部を創設した方は劇画家の山川惣治氏のご子息ですよね。

 吉田 山川重治先輩です。昭和30年代に子供たちの間で人気となった「少年エース」という物語があって、その主人公が少林寺拳法を使っていたのです。その作者が山川惣治さんです。

 井上 少年エースは産経新聞に連載されていた絵物語で、主人公の少年が敵と戦っている時に、一人の老僧が現れてやっつけてしまう。この老僧が少林寺拳法の達人で、少年たちが技法を身につけていく、という展開でしたね。

 吉田 そうです。この物語を書いた当初、山川惣治さんは開祖とは面識がなかったのですが、あるとき山川家に開祖から1通の手紙が届いた。山川惣治さんはそれをみて「これはクレームだろう」「無断で少林寺拳法の名前を使ったからたいへんなことだ」と慌てたのだけれど、実は少林寺拳法を正義の味方が使う武道として取り上げたことに対するお礼の手紙だったのです。そこから開祖と山川惣治さんは仲良くなったそうです。

 井上 有名なエピソードですね。

 吉田 その後、開祖があるテレビ番組に出演するために上京したときに、目白の椿山荘で少林寺拳法の演武を披露しました。そのとき山川惣治さんに連れられて、息子さんの山川重治先輩も見に行った。大学2年の時ですね。そこからのご縁で、山川先輩が本部へ行くことになるわけです。同級生5人と一週間くらい本部に滞在し、開祖が一週間つきっきりで、5人を教えてくださったそうです。そこから大学に戻って、すぐにクラブを設立したのですね。

 井上 そこに吉田さんが入部されたということですね。まさに草創期のエピソードですね。

 吉田 私が明治大学の少林寺拳法部に入部したのは、1962(昭和37)年で、関東学生大会の第一回目が開催された年でした。4月に少林寺拳法部に入部してその年の11月です。その当時で、10校以上の大学から参加があったと記憶しています。

 井上 記録によると、第一回は14校の参加があったそうです。この年の4月に関東学生少林寺拳法連盟が結成されているのですね。

 吉田 そのときは千葉商科大学(※当時は大学内で部活動として承認されていなかったため「千葉学生会」として参加)がずば抜けていました。演武競技も乱捕競技も優秀な成績を収めていましたね。

 井上 ちなみに第一回目の全日本学生大会が行われたのが、吉田さんが4年生の時ですね。

 吉田 そうですね。私が大学1年のときに関東学生大会がはじまり、4年のときに全日本学生大会がはじめて開催されました。振り返ってみると、大学の少林寺拳法部が大きく発展していくその節目に立ち会っていたわけですね。私も第二回関東学生大会の団体戦に出場し、優勝しました。そして私たち明治大学少林寺拳法部は、第一回目の全日本学生大会で総合優勝するのです。それが良い思い出となっています。

 井上 すごいことですね。まさに大学少林寺拳法部の歴史を直に体験されてきたわけですね。その当時、すでに大学合宿はあったと聞いていますが、どんな練習をしていたのですか?

 吉田 あの頃は、いまのようにたくさんの大学が一堂に会するのではなくて、大学ごとに本部に行って合宿をするという形式でした。みんな平野屋旅館に泊まってね。開祖は講話はしてくださったけど、技法の指導は職員の先生が教えてくださいましたね。明治大学は山川重治先輩が創設した部でしたから、開祖はとてもよくしてくださいました。私が3年生のときには、合宿の前に10日間くらい本部道場に泊まらせていただいて、開祖直々に技法を教えていただいたこともあります。あとはお手紙もたくさん頂戴しました。

 井上 それはすごいですね。開祖の技はどんな印象でしたか?

 吉田 もうすごかった。手を持たれた瞬間に接着剤でくっつけられたような感じで離れなくなってしまうんです。開祖の手は太くてね。触られただけで、吹っ飛んでしまうように思いましたよ。

 井上 貴重な経験ですね。

 吉田 開祖は大学生の拳士をすごく大切にしてくれていたように思います。当時の講話で「きみらの中からいずれは大臣が出るのだ」というお話があったのですけど、私たちはまったくピンときませんでした(笑)。でも、中央大学少林寺拳法部OBの高村正彦先輩は外務大臣などを歴任され、現在は自民党の副総裁です。慶應大学OBの石原伸晃さんも環境大臣など重要なポストを歴任され、自民党の幹事長も務められましたね。ですから、今になってようやく開祖が言っていたことの意味がわかります。日本の将来を担う人材を育てようと、本気で思っておられたのですね。すごく先見の明があった方なんだと、しみじみ思います。

 井上 明治大学の少林寺拳法部は、どんな雰囲気でしたか? かなり厳しかったのではと想像しますが。

 吉田 それがね、あまりスパルタ的なところはなくて、先輩たちもすごく優しかったです。家族的な雰囲気というかね。民主的と言ったらおかしいのだけど(笑)、大会に出るメンバーは部員全員が競った上で決めていたんですよ。

 井上 当時は乱捕(運用法)競技が盛んだったと聞いていますが、どのようにしてメンバーを決めていたのですか?

 吉田 2年生も、3年生も4年生もみんなが乱捕をして、成績の良かった者が代表として選ばれていました。大会前になると、みんなで山川先輩のご自宅に伺って練習をしました。飯田橋の真ん中にある、文字通りの豪邸ですよ。そこで山川惣治さんや奥様がいらっしゃるところで教えていただくわけです。練習後には食事をご馳走になって。これもいい思い出ですね。

 井上 吉田さんは、いまも現役の練習に顔を出したり、関東学生OB同友会で大学少林寺拳法部の支援をされたりと、様々な形で活動されています。大学生をはじめとする若い拳士にアドバイスをお願いします。

 吉田 大学の4年間は、あっという間に終わってしまうものです。だからまずは「いろんな人と接しなさい」と。他大学でもいいし、学生連盟でもいい。本部合宿に行って、指導員の先生と親しくさせてもらってもいいでしょう。私も、いまだにお付き合いが続いているのはみんな少林寺拳法の仲間ですよ。明治大はもちろん、東大もいれば、慶應、法政、早稲田、立教、東海‥‥関東の大学はもちろん、関西とか他の地域のOBとも未だに交流があります。

 井上 吉田さんはご出身の大学だけでなくて、他の大学、他の地域とも連携して活動されておられますね。そこにOBの方々の絆の強さ、深さをいつも感じています。

 吉田 はい。少林寺拳法の場合は人の輪というか、つながりが本当に強いですね。振り返ってみると、節目節目で少林寺拳法で培った人間関係に助けられてきましたね。例えば社屋を建築をする時には、設計、施工を他大学の仲間に頼みましたし、何か困ったことがあったら弁護士の仲間もいる(笑)。また、うちの会社には拳士の社員が10名はいますしね。もう一つ、若い人たちにいつも言っているのは、「思い出をいっぱい作りなさい」ということです。

 井上 思い出と言いますと?

 吉田 「少林寺拳法は勝ち負けじゃない」というけど、やるからにはやっぱり全力を尽くして勝ちにこだわれ、と。そしていい成績をとって思い出を作って欲しい。やっぱりなんだかんだ言って、社会人として活躍する人は学生時代にも活躍しているのです。もちろん勝つことだけに執着して、手段を選ばず他人を蹴落とすようなことをするのは言語道断です。そこを開祖は戒めたのであって、勝ち負けにこだわる中で、自分を律していくことに意味があるのだと私は理解しています。

 井上 そうですね。勝敗や成績をつけることを否定するのではなくて、その中でいかに自分をみつめ、安易な方向に流れそうな自分を知る。そうやって、自分の弱さも知るからこそ、律することも叶う。そこに学びがあり、成長があるわけですね。

 吉田 そういう人こそ、開祖が求めた社会のリーダーになれると思いますよ。私はリーダーというものは、周囲から求められてなるものだと思っています。俺が俺が、ではなく、「あなたがなってくださいよ」「調和を取れるのはあなたしかいないですよ」と求められるもの。周囲とうまく調和をとって、全体をいい方向に進めでいくのが本物のリーダーですよね。

 井上 リーダーの実力、あるいは品格というものは、自分から言わなくても自然と滲み出るものなのですね。これは若い拳士のみならず、私たちも常に自問するべきことだと思います。大変勉強になりました。どうもありがとうございました。

 (2015年12月2日 日本動物薬品株式会社にて)

 

吉田信行氏プロフィール

1943(昭和18)年、東京生まれ。明治大学政治経済学部卒業。1968(昭和42)年、家業である株式会社ヨシダに入社。現在、同社代表取締役社長、日本動物薬品株式会社取締役会長、日本観賞魚振興事業協同組合会長などを務める。著書に「新観ß賞魚春秋」(共著)、「金魚はすごい」(講談社)などがあり、金魚の正しい飼い方、育て方、病気対策などの正しい知識の普及に努める。明治大学時代に少林寺拳法を始め(第157期)、現在は四段。今もなお現役拳士の指導に携わる。

yosidasama