vol.31 無始よりこのかた……

2013/12/01

aun_m_vol31修練を終えて汗だくの道衣のまま道場に座り込んでの話。「宗派や無宗教かどうかにかかわらず『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』などということを人は考えるものだね。鎮魂行のある言葉に来ると時折そう思う」と彼は言った。それはゴーギャンの絵の題。

ゴーギャンは11歳から5年間神学校で学んだが、後半生はキリスト教にすごく反発したといわれている。それにもかかわらず、神学校時代に司教から教えられたこの霊的ともいえる魂への問いかけは頭から離れなかった。

「科学技術が高度に発達し知識に富む文明社会のフランスから、自然の神々の住むタヒチに行ってあの作品を書いたのだから、信仰のあるなしや信仰の対象に関係なく、『始』や『生まれる前の自分』から逆に『生き方』を考える。人にはその問いは共通なのかな」

誰一人として自分の経験として語ることができない「私の死」や「未生の自分」を「想像する力」を持つ「人」だからこそ、魂の問題を抱える。それゆえ全ての人には宗教性があり仏性がある(一切衆生悉有仏性)といえるのかもしれない。

「開祖は『苦の根源は、全ては生きたいと思いながらも死に至るという矛盾にある』と言われたが、『死』は人にとってやはり最大の課題(生死事大)だね」

業・輪廻思想、自業自得の自己責任倫理と来世は今生の行いより決定されるという因果応報、それらは仏教成立時の支配的な考えだ。

「『死と再生の思想』は古代エジプトやそこら中にあったものだが、古代インドでの輪廻転生は、再死と生の苦しみが繰り返されるという考えだから、無限の苦しみそのもの。輪廻転生からの永遠の脱却(解脱)を望んだでしょう。解脱を、生と死からの離脱。『不死』『涅槃』(ニルバーナ)、『彼岸』。仏教の『不死』とは、肉体的な不死でも、この身のまま極楽に行けるという話ではないんだ」

今は、死よりもさまざまな人間関係や生活苦から生ずる悩みで『自死』に至る場合も多い。そして、再生の苦しみよりも「死」による自己の消滅、死に至るまでの肉体的苦痛や不安の方が苦しみだ。

人間の肉体細胞は、成長・再生を繰り返しながらやがてその能力を失い、死を迎えるということは自然の条件。そう分かっていても、核家族化や少子化で家庭の中から年寄りは見えなくなり、「老」「死」を日常から遠避けられた非現実的なこと、観念的なことにしてしまっている。老いること、歳を取ることは避けたいことの一つとなり、老人が智者であることは童話の世界の話。

「おい、歳を取ることって悪いことかい。そりゃあガタは来るけど、この旅は誰もがone-way ticket。偶然貰った運のよさに感謝。限りある生を誠実に生き抜くことは意味がある。そう思う。人間として自分を高める修行を続けることに価値があると思う。老いた賢者を目指して、生涯の修行者。いいじゃあないか」

今ある「生」から将来の「死」を観ると、老いを遅らせ、病を直し、安定した経済生活を維持し、平和な人が人としての尊厳が守られる社会づくりが課題。一方、「未生」と「死」から今ある「生」を観るとき、人として自らの霊性を高めることが文化や民族を超えた共通の課題。それを宗教というかどうかにかかわらず。

(文/須田 剛)