vol.8 脚下照顧

2010/02/01

aun_m_vol08「脚下照顧」――少林寺拳法入門時に道院長や先輩からその言葉の意味について、またその実践指導を受けます。

最初は単に履物をえることと思い、日々修練のたびに揃えるのですが、そのうち自分の足元を見ることに気づき、更には自分自身を見つめ直すことに気づいていきます。

「脚下照顧」は周知のとおり、金剛禅独自の言葉ではなく、言わずと知れた禅家の言葉であり「照顧脚下」「看脚下」ともいわれ、禅寺に行くと入り口にこの文字を見かけることがあります。

我々は、日々の修練において鎮魂行をするわけですが、これは精神を整え、心を落ち着かせ、正に自己を見つめ直すことにほかならないのです。

自分自身を見つめ直すことにより、結果的には知って・気づいて・改めることを学び、これが自己を改造(確立)することにつながっていくのです。

金剛禅の修行者が特に気をつけなければならないことは、「拳に走る者は拳に溺れ、拳に潰され、また、拳を避ける者は口実に走り、我を失う」ことを知らなければなりません。

故に我々金剛禅の修行者は宗門の行たる少林寺拳法を修行(主行)し、宗門である金剛禅の教えを修学しなければならないのです。拳禅一如の修行法といわれるゆえんがここにあります。その第一歩として自分自身を見つめ直すことが必要となってくるのです。

当然至極ですが、漸々修学たる我が金剛禅は一歩一歩自分自身の足で、その足元を己自身が確かめ着実に進歩する道を歩むことにほかならないのです。

ともすれば情報化社会の洪水に流され、飲み込まれそうな毎日ですが、日々の鎮魂行により一日を見直し、反省する「行」の大切さが身に染みる今日このごろです。

「脚下照顧」は簡単なようで、その実大変奥深く難しいものなのです。

生きている今を大切にし、一生をかけて修行する金剛禅であるからこそ、「脚下照顧」の言葉が生きてくるのです。

まずは、初生の赤子として今一度、履物を揃えることから始めようじゃありませんか。

(文/川端 哲)