vol.1 自ら求めて魂を鎮める行をなすもの

2008/12/01

aun_m_vol01朝早く本山を訪れ、ある職員に面会を求めたときのことである。就業開始にはまだかなり間があったが、そのときの返答は、「今、鎮魂行をしております」というものであった。私は、少し驚き、少し感動した。鎮魂行は、易筋行に先立って行われる一連の儀式と思われがちであったから。そして、専従職員と呼ばれるように、彼らは、組織機能を維持するため、膨大な事務を、仕事としてこなす人だと何とはなしに思っていたから……。

少林寺拳法の修練も、金剛禅にかかわる儀式執行や教学も、彼ら職員にとって仕事であり、一方道院で修行する私たちにとっては、生活の糧を得る仕事のほかに、求めて時間をつくらなければできない修行である。ちょっと違うようにも思えたからである。「仕事」としてではなく、求めて行う修行法としての鎮魂行。それを、黙々と行う本山の専従職員に山門のうちで修行する同門としての共感を覚えたのである。

開祖は、人間形成の修行法を、鎮魂、易筋の二つに凝縮させ、在家者の修行法をつくり上げた。教典唱和、調息、座禅を含む鎮魂行は、内を修める積極的な修行法と位置づけられている。何かのついででも、形だけやるものでもなく、自ら求めて魂を、心を高めるために、積極的に行う行法として。

突き詰めて、突き詰めてつくり上げたこの修行法と金剛禅の教えを、深め、伝える道を今私たちは歩んでいる。道院という道を求める人々の場を維持し、微力ながら伝道する立場を得ることによって、具体的に他人を思いやり、行動することができる。道院長になることは、修行の段階であり、立場がまた人をつくるという現実に根ざした見事な修行法といえば、開祖は笑われるであろうか。「弟子」と称されるこの道の同志より問われて、それに誠実に応えようとして、自分の成長があったことを、私は素直に認める。

何を信仰し、どのように深めるのか。何を問い、誰に問うのか。この誌面がそれらのことを深める修行の場の一つであることを願わずにはいられない。合掌

(文/須田 剛)