vol.18 自我を修め、霊性を養い、人らしく生きるために行ずる

2011/10/01

aun_m_vol18「先生は霊魂の存在を認めますか?」と修練後の話の中で聞いた。先生は幽霊に出会ったことも、臨死に際して幽体離脱を経験したこともないので、「わからない」と答えた。「霊」や「魂」を、肉体から離れて存在する精神的実体とするならば、その問いは極楽や天国の有無を問うのと同様に、あると思う人にはあるのであろうが、科学的に証明不能な問いであり、肉体の死とともに「わたし」もなくなる、つまり「わたし」にとって「わたしの死」はないと考えるならば、刺さった矢を抜き、いかに生きるかが優先する。己の願望に目をくらますことのない知恵を身につけ、我欲を抑え、「霊性である魂を修め」、人らしく生き抜くように修行することに意義がある。

「魂」に比較して、「霊性」という言葉は、なじみが薄い。英語の・spirituality・の日本語訳が「霊性」であることから、「心霊」と類似の意味とし、霊魂などの超自然的な存在を信じることや、あるいはそれらとの結びつきを感じることができることに意義を置く考えととらえる場合もあるだろうが、おおむね「人間や動物の体に宿って、心の働きをつかさどり、尊く目に見えない不思議な働き」と解しておけばよいように思う。

日本の禅を世界に広めた人の代表でもある鈴木大拙は、精神と物質との奥にあり、この二つを一如となすものが霊性であるという。精神には倫理性があり、霊性はそれを超越しているとする。「我々の心のもと、心の働きの出どころ、我々の存在の根底をなし、知情意を働かせる原理(を)霊性と呼ぶ……だが霊性という実体が、別個にあるのではない、我々の心の最も奥深いところにあるもの、即ち心の本体に、仮に霊性という名を付した……」と述べている。

「霊性」を「宇宙の中の命の自覚」ととらえ、人間のみならずさまざまな存在に霊性はあると考える人もいる。大乗仏教あるいは禅宗における「一切衆生悉有仏性」と類似する見方で、「霊性」に「個別の宗教性を越えて、宗教の共通の基盤を見出していこうとする、超宗教性や通宗教性を求めようとする衝動がある」とする。

また、私たちが経験する現実という世界は、現実の表層にすぎず多層構造であり、人間の意識も多層構造である。浅い表層意識では現実の浅い表面のみ見え、意識の深層には現実の深層が見える。また、意識が表層から深層へと変化していく過程において「方法的組織的な修行」(井筒俊彦)が必要であるという考えや、その考えの意義を認めつつ「深い意識の層における体験を持った人が、必ずしも表層のレベルの問題解決に役立つともかぎらない」(河合隼雄)という指摘もある。

私たちにとって、人間の霊性とは学歴や出身、性別、人種に関係なく、己の欲を抑えて、他者に慈悲を持って行動する人の中に見出すことができるものであり、己も修行によってそうなりえると信じる根拠でもある。「凡そ人心は、即ち神なり仏なり、神仏即ち霊なり」というのが私たちの考えでもあるが、「人間の『霊性』」とは何か、どう考えるかを問うことは、少林寺拳法の修行目的を問うことであり、人間性(慈悲心と行動力)を高めることができる信の有無を問うことでもあるように思う。

(文/須田 剛)