vol.17 覚者を敬い、法により、仲間とともに在る

2011/08/01

aun_m_vol17「少林寺拳法で得たもの、それはよき仲間である」と先生は高校生に講話され、釈尊と阿難との会話を引用し、更に「それは修行の、人生のすべてといってよい」と続けられた。

真理・法に目覚めた人を敬い、そうなりたいと目指し、覚者の説く法・教えを生きる基準とすることに努め、法を学ぶ仲間・集団を維持し育てることは宝である。仏・法・僧(僧伽)を三宝と称し、この三宝に帰依することで仏弟子とされる。

勤務先に近い道院の門をたたき、拳士という称号を得たころ、修練を終えて仲間と道場や拳士の家、ファミリーレストランで話し込む日々があった。年若い先輩と、何杯もコーヒーをお代わりしながら24時前後まで話し込むことが多かった。法話、技法、道院の運営はもとより、それにとどまらぬ話に職場では味わうことのできぬ広がりと楽しさを感じたことを覚えている。若き先輩が、職を辞し新たにできた武専本校に入るといったとき、せっかく得た職を辞めてまで行く価値があるのか、と唖然とした顔で聞いた。彼は年上の後輩の常識的な問いかけに、気負うことのない笑顔で「うん」と答えた。 

時折、戻ってきた彼は道場に顔を出し、修練後、一人で鏡に向かって黙々と基本である順突と逆突を繰り返した。その姿に、理由もなく本山は修行の場であると信じたことを覚えている。

法をわが物にすることを求め、先達の示す法を導きの糸とし、犀の角のごとく歩み続ける人は孤独を恐れない。ただ一人となろうとも、真理に従う強さを求めて修行する。道を求める者は、自らの中にある霊性に従って生きることを喜びとするだろう。自我、自尊の意識を超えて自己確立、そして自己確立・自他共楽を生き方の基軸とする自立した修行者の結び付きが僧伽、今日における道院、教団の原型であると思う。

原始仏教、初期仏教と呼ばれる時代には、布施される一食に命をつなぎ、一か所に留まることなく遊行し、生・老・病・死の根本の苦を克服し、家を捨てるように愛別離・怨憎会・求不得・五陰盛の苦を捨て去り、悟りを得て心静かな世界に至りえたであろう。仏弟子は、利害のない修行者の緩やかな集まりである僧伽に帰依する。

今日、世を捨てるがゆえに成り立つ「聖」の世界を教団に求めることは難しい。私的所有に立つ権利義務と契約の関係や経済合理性の世界に対応しつつ、「俗」の世界に翻弄されることのない修行者の集まり「僧伽」を保つために、組織構成者一人ひとりが、自分の俗の世界の利得を超えた全体的な視点と見識が求められる。本当の意味での「社会の指導者」であり「魂の教師」としての力が。

たとえ、職場や家庭にないものを求めて入ったとしても、この門は満たされぬものの代わりを得る場ではない。現実の社会で生き抜く智慧と行動力を高める修行の場である。武・法・僧いずれの位階も、自己の成長の道標にすぎず、教団という小世界の上下関係、優劣を示すものではないことも自明である。さまざまに得る資格も、法を伝える手段、道具にすぎず、収益を得る権利ではない。そう考える仲間によって教団が維持されている、と信じている。
(文/須田 剛)