vol.16 言葉に尽くせぬことを伝えるということ

2011/06/01

aun_m_vol16「間違った技などというものはない」という言葉が、地方の武専で指導中の先生の口から出た。

拳を学ぶに際して、私たちは師の格に至ることを、第一とする。師の形に己の動きをなぞらえようと努める。開祖の人間観を感じさせる具体的で、学習・修得に共通する訓えが、まず、まねることである。これに従って、私たちは師から学び、後輩にまず形を教えようと努める。勢い、「それは違う」「こうしなければならない」という言葉となる。

どこが違い、どう身体を操作すべきか。考え、試行し、省み、修正し、行うことを繰り返すことによって、意志と動作、心と体を変え育てる。それ故このことを易筋行という。

教える人にも、「問い」が生じる。「自分は自分が言うように動いているのか」、「なぜそれは違うといえるのか」「どのような理由でそうすべきなのか」と。私たちが教えることができるのは、内容と教え方を誠実に組み立てようという努力と、誠実さだけでは許されない危うさを自覚しているからである。そして、自らにも同様のことを問うているからでもある。そして、人は正しい努力によりよく変わりえるという法を信じる修行者の集まりだからでもある。教える人にとっても易筋行なのだ。

私たちが修行に際して準拠すべきことは、新入門者にも「修行の心得」として示されている。8項目に整理され、修行目的を第一に掲げ入門者にその意志を問う。この修行目的に合わぬものは、この道に入る必要はないと。これは開祖の強い意思の表れであろう。「三徳」を求めるだけならば、他の武道や何かでもよい。人として尊厳が守られる理想社会を実現するという目的のために積極的な行動ができる自己に変革しようという意志のないものには、少林寺拳法の修行をする意義はないというのである。

修行の心得は、反復した身体への定着の前に「理を知ること」を掲げる。自分と師との身体的個性を置き、まねるという行為にも、その技の理法を知ることが必要であるという。この意は修練を重ね、さまざまな人の技を学び、また指導することを通じて、理法を見出せということであり、教える立場に立つものは、形にある理法を示せということであろう。少林寺拳法は、他者とのよき関係を作り社会性の育成を目指し相対演練を主とする。自己の心深くに入り込み自己の本性を問う個としての修練ではない。天与の才豊かならざるものでも、その理、法に従えば必ず上達しえる道であり、我と宇宙が一体化する個を求める道ではない。理法を知ることが目的ではなく、理法に従って己を変えることが目的である。

であるならば、そのやり方ならどうするほうが理法に合うのかを語れる力が、結果以上に過程の評価が、また異なることの強調以上に共通する理法を理解する力が求められているのではないだろうか。これが今の私の師の問いかけへのささやかなご回答である。

「不立文字・教外別伝」。言葉はすべてを伝えきれない。しかし言葉を通じて伝える努力を怠るわけにはいかない。
(文/須田 剛)