vol.33 誰が清濁を判断するのだろう

2014/04/01

鎮魂行を行うにあたって大切にしなければならない三つのことは何ですかと、聞くことがある。答えられない子供もいれば、知っているぞとばかりに他の人への質問を取って答える子供もいる。「大きな声で」「自分に語りかけるように」「みんなと合わせて」すること。そう言っている。自分に語りかけるためには、意味が分からなければそれはただの呪文になってしまう。法話のとき、ふと頭によぎった疑問があった。それを、みんなに聞いてみたくなった。聖句の「自ら悪をなさば自ら汚れ、自ら悪をなさざれば自らが浄し、浄きも浄からざるも自らのことなり、他者に依て浄むることを得ず」という言葉。一体誰が、「悪」とか「清い」とか「清くない」とか「汚れている」とかを判断するのだろうかと。小学生は、「分からない」という素朴な返事の他に、お母さんとお父さん、学校の先生、ルールや法律と答えた。まああまり学校の先生と言う子供は多くなかったが。中学生くらいになると、慣習、道徳といった少し抽象的な回答もあった。大人には聞かなかったが、宗教的規範とでも答えるのだろうか。

律はもとよりルールも道徳も人がつくり出したものだから、時代、文化や国が違えば、「清い」ことも「汚れている」と思われることもあるだろう。国が違い習慣が違えば子供の頭を撫でることはいけない。あるところでよいことが他ではよくない例はたくさんある。では、共通のものはないのだろうか。映画や音楽、絵画といった芸術は国を越えて感動する。世界宗教というのが存在する。

こんな話を読んだことがある。それは、第二次世界大戦におけるユダヤ人虐殺についての裁判での話。アイヒマン裁判の証人の一人、アバ・コヴネルの証言。彼はたまたまドイツ軍の軍曹長アントン・シュミットの名を挙げた。その兵はポーランドで部隊からはぐれたドイツ兵を拾うパトロール隊を指揮していた。任務中に、彼はコヴネルを有力メンバーとするユダヤ人地下組織の人々と出会い、そして偽造書類や軍用トラックを供給してユダヤ人パルティザンたちを助けた。彼はそれを、金のためにしたのではなかった。この援助は1941年10月からアントン・シュミットが逮捕され処刑されるまで五か月間続いた。処刑は、ドイツ降伏(45年5月)に先立つ42年3月のことである。このドイツ軍曹長から与えられた援助について語った数分の間、法廷はすっかり静まり返っていた。『イェルサレムのアイヒマン』(ハンナ・アーレント)、ミルグラム効果と魂の共感。

「清濁」「正悪」の判断を法律、慣習や道徳だけに任せるだけでは十分ではない。

ではそれは何だといえば、「自分」あるいは「自分の中にある清らかなもの」ではないか。自己確立。国、民族や文化を越えた「人に共通な清らかなもの」。ある人は、それを自分の外にあるもの、「神」様だと言うかもしれない。私たちは、自分の中にある「霊性」、あるいは「ダーマ(ダルマ、ダンマ、法)の分霊だ」と言う。中にあるか外にあると思うかでけんかする必要はない。いずれも、日常の自分の(感覚の)「外」にある人間の底深くにある、あるいは共鳴するものだから。それを人間は育てることで向上してきた。人は「清らかなものを持っている」。そしてそれを育てることができる、と信じている。それが、私たちの「信」、「信仰」といえるのだろう。
(文/須田 剛)