vol.2 身を整え心の清澄を図る

2009/02/01

aun_m_vol02本山回廊から剃髪の教員の穏やかな声が聞こえる。「心ヲミガクヨウニ 一生懸命ベン器ヲフキマショウ」。その声を受けてか、学生の作務が静かに行われる。本山と同じく、道院においても鎮魂行に先立って作務が行われる。修練に先立つ作務は、修行の環境を自らつくる修行であり、修練後の作務は、修行のときを得たことへ感謝の行。

「修行」は身体の錬磨を通じて、精神を訓練し高めるもの。そう私たちは考える。だから、作務は身心一如の大切な修行の一つとして行じている。清掃するからには使う人を思いやって、美しくする技術を身につけることは大切だ。が、私たちは清掃の技術の修得を目的に修行しているとは思ってはいない。

金剛禅の主行である易筋行=少林寺拳法においてもまたそうではないだろうか。拳の技法習得が修行の第一の目的ではない。限られた人生をいかに霊止の人として生き抜くかを問い、信頼に足る自己を育て他人を思いやることのできる人間になること、人間完成を目的に修行している。己の身体が滅びるときに、私はよく生きた、と言える生を求めて行じているように思う。

仏教独自の修行体系として戒・定・慧の三学がある。自らを戒め我欲を抑え、姿勢を整え偏見や先入観を捨て正しく思念し、自分の願望に乱されず苦悩を克服し人生を正しく生きる智慧を得る。人は身体の諸器官で感じ、思考し、思い悩む。身体がなければ自分はない。だから、身を整え心の清澄を図る。私たちは、そうした身心一如という人間観に立って行じている。

少林寺拳法の第一の特徴は、拳禅一如であるが、このことは身心一如の人間のありようを表すと同時に他宗門の修行法に対する特異性も示している。偏見と先入観から離れるために身体に戻り、我欲を抑え、人はよく変わりえたことを身を以て知るための優れた行法として易筋行=少林寺拳法がある。しかし金剛禅総本山少林寺の修行目的がなければスポーツや武道と変わることがないではないか。武道の一流派をつくったのではないのだ。若き学僧の作務への呼びかけとともに、そんな声が聞こえてくるように思われた。

(文/須田 剛)