• >
  • vol.28 連帯責任で学んだ自他共楽

vol.28 連帯責任で学んだ自他共楽

2013/06/01

連帯責任という言葉を耳にしなくなって幾久しい気がする。広辞苑には連帯責任とは、「連帯で負担する責任」とある。本来、責任ある立場にある人が責任を取れば済むことであるが、現在は、責任の擦り合いから連帯で責任を取るという立場から、自分で責任を取るという「自己責任」へ変わりつつある。それは、責任の所在を明確にするという考え方からきている。果たして「自分で責任を負えばいい」という考え方でよいのだろうか。

昭和40年代、大学の少林寺拳法部に入部した私は、そこで何事においても連帯責任を取らされた。当時はそれが常識であったように思う。例えば、入部同期の誰か一人でもヘマをすると同期全員に罰が科せられた。ヘマをするのはいつも決まってA君だった。しかし、今思うに不思議でならなかったことは、同期誰一人としてA君を責めなかったことである。心の中はどうであれ、言葉・態度で軽蔑することもなく、逆にみんなで「俺たちがついているから、一緒に頑張ろう、元気を出せよ」と励まし合いながら、結局、最後に一緒に卒業できたことが非常に嬉しかった。

なぜだろうか。当時は厳しい修練の中で、一人ひとりが迷惑をかけないように必死で頑張り、努力することによって自然とお互いを思いやる気持ち、引き立てていこうという気持ちが養われていたのだと思う。「連帯責任」の効果の表れではないだろうか。

少林寺拳法の特徴の一つである「組手主体」、すなわち技法修練の特徴であり、「ぼくもうまくなるけど、君もうまくなろう」という協調性が養われた結果だと思う。法話らしい法話もあまり聞いた記憶もない。まさに少林寺拳法の修行を通して拠り所とできる自己を確立し、そして、他人のために役立つ人になろうという拳禅一如、力愛不二の法門で、自己確立、自他共楽の道を学んだ気がする。

論語抄に、「子曰く『故きを温ねて新しきを知らば、以て師為るべし』」という孔子の言葉があるが、これは「過去のことを考え究め、それを取捨し、選択したものを基に現在および未来のことを考える、そうした考え方をする人は、他の模範となりえる人である」という意味である。伝統にばかりこだわることなく、また新しいことばかりにこだわることなく、見極めて、現在、未来に生かせる考え方をしていきたいものである。

このたびの東日本大震災で「みんなで何とかしよう、力を合わせて立ち直ろう」等々いろいろな形で連帯感が生まれ、一つになって復興へ向かっている。これが、まさに連帯して責任を持ってやっていこうという考え方ではないだろうか。少林寺拳法は修行を通して人間が人間として正しい生き方を学ぶことができるシステムになっている。コツコツと積み重ねていくことにより、このすばらしいシステムを生かせることができるのだと思う。そこにはやはり金剛禅指導者の資質が大事であるということを感じざるをえない。

未熟ではあるが金剛禅指導者として少林寺拳法の基本理念である「人づくりによる国づくり」に携わることができる喜びは、「連帯責任を取る」という教えの下での、大学の少林寺拳法部で培われた気がする。

人間は一人では生きられない生き物であり、生かされているという自覚の下に、何事に対しても連帯・協力して社会の平和と福祉に貢献できる人になることを目指し、金剛禅指導者としての自覚を持ち、理想境建設という「夢」に向かい、「夢」は必ず叶うと信じて歩んでいかなければならない。
(野田川間道院 道院長 古嶋 賢幸)

道では
投稿大募集!受付メールアドレス  aun@shorinjikempo.or.jp