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vol.19 道半ばの精神

2011/12/01

大学時代からの友人に藤高郁夫という男がいる。彼は、和太鼓のプロ集団「TAO」の代表を務めている。最近になって、海外や日本のメディアに多く出るようになった。

中国語で「道」のことをタオと発音する。最初は、日本の伝統芸能である太鼓や笛などを中心に演奏していたが、1995(平成7)年に愛知県小牧市から大分県竹田市に本拠地を移し和太鼓を中心に激しい動きを取り入れた総合舞台芸術を目指し発展している。日常生活の中で、音楽や娯楽は欠くことができないが、彼らの演奏は、見る者・聞く者を更にくぎづけにする未体験の感動を感じさせる。

TAOの創設者であり、プロデューサーを務める藤高郁夫氏と私は、せっかくの「和太鼓TAO」とのご縁もあり、10周年の記念大会でジョイントを組み演武会を開催したことがあった。だが、個人的な満足感や意地などでは到底イベントなど成り立つはずもなく、しょせん「損か得か」、「快か不快か」が基準になるような開催には限界がある。また、それまでのプレッシャーも大きく、何度も挫折感を味わったり、中止にしようかと幾度となく考えたりもした。しかし、少林寺拳法との初の融合、調和したものを舞台演出により、視覚、聴覚、感覚で伝わりやすく表現したものをつくり出し、見る人全ての人に感動を与える歓びを励みにし、お互いの未来に発展を願い「新たなる出発」と題して、心を尽くして幕を開けることができた。会場は超満員で膨れ上がり、通路にまで立ち見があふれ、感動の涙や再三のアンコールに幕が閉められない程の盛況であった。

「できなくてもしょうがない」は、終わってから思うことで、それを途中に思ったら、絶対に達成できない。何かを成すには常に道半ばと思うことが重要である。もちろん道半ばと思い、目の前の努力をコツコツ積み上げていく必要があるのだが、「できなくてもしょうがない」と思ってしまったら負けである。例えば、残務整理をしっかりして、自分がある意味、活動できる基盤を作ることが大事なのだが、それに関しても、道半ばだと思い、それを整理し終えるまでのフローをしっかりイメージしておかなければならない。

今回の震災のように全く予想もできないことも起こる。そういうときにぶれずにしっかりと歩むことに必要なのは道半ばの精神である。私はこれを大切にしたいと思う。今、東北の人たちは本当に大変な思いをしている。もちろん、「できなくてもしょうがない」などと思っていては、復興など絵空ごとに終わってしまう。道半ばの精神が私たち以上に必要だと思う。

金剛禅の実践は、人々とよき縁を結び、それを運び育てるための人間関係づくりである。
「道」の認識は、その実践への心構えの大前提として、大いなる働きダーマがある。

ダーマの分霊として、この世に生かされていることへの喜びと、霊止として、よりよく生きんとの信仰であるが、身近な人々から国家全体に至るまで、人のために奉仕する喜びを自らも知り、他人にも知らせることが大事である。「気づいたらそこのところにきている」と開祖が言われた。今、現実のものとして認識することである。開祖の実体験から発する宗教としての思想形成が少林寺拳法には脈々と受け継がれている。人道を教え、人を生かしてこそ道は開かれる。

(大分佐伯道院 前田敏文道院長)

道では
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