vol.21 遥かなる釈尊(下)

2012/04/01

aun_m_vol21日本は近代西欧化の中で学問や宗教もまた強い影響を受けた。従来の北方仏教に代わって現れたのが、西欧からの文献学的仏教である。特にインドの宗教言語の研究は、釈尊在世の初期仏教の探求に大いに役立った。釈尊が直接弟子たちに語った言語を想定させ、釈尊の姿が生き生きと映し出されてきたのだ。明治以前、漢訳仏典でしか仏教解釈をしてこなかった日本人にとって大きな衝撃となった。そして日本語の仏教聖典を持たなかった日本人には、サンスクリット語、パーリ語の仏教聖典の翻訳が、漢訳仏教とは違う新たな視界を開かせたのである。

文献学的仏教研究の基礎を築いたのは、南條文雄、高楠順次郎らである。そして、木村泰賢が『原始仏教思想論』、姉崎正治が『印度宗教史考』などを著した。一方、和辻哲郎は『原始仏教の実践哲学』を、中村元は『インド思想史』などを著し、比較思想的研究など独特の仏教研究を展開した。開祖は『教範』の参考書目にこれらの著作を掲げている。釈尊の正しい教えを究明するうえで、深く原始仏教に関心を持っていたことが窺える。

西欧の仏教研究の対象は原始仏教であった。原始仏教とは、釈尊の初めから、仏滅後100年ごろ、部派に分裂するまでの、または西暦前3世紀のアショーカ王時代ごろまでの、インド仏教最初期の段階を指す。原始仏教の中心的な教理は、最初の説法でなされた四諦、八正道、縁起、五蘊の無常・苦・無我などである。

戦前、こうした釈尊の根本的な教理研究を踏まえた「釈尊に還れ」という仏教運動が起こった。その旗手となったのが友松圓諦である。友松は早くから仏教経済思想の研究に精通し、現実の仏教教団のあり方を痛烈に批判し、本寺末寺関係を持つ各宗派教団の統合など大胆で革新的な提案をしていた。そして東京を根拠地に1935年、全日本真理運動本部を組織し、機関誌『真理』を発刊、大阪にも支部を結成し、盛んに講演をしている。

さてこのころ、開祖は『正史』によれば、各務原飛行場を除隊の後、大阪に移住し結婚、1936年に大阪北区役所に婚姻届を出したとあるから、当時、頻繁に行われた大阪での友松の講演を聞き、機関誌『真理』を購読するなど何らかの触発があったのではないかと察せられる。その意味で、開祖が『教範』46ページに、『真理』十一の一(1936年1月号)に載る友松の論説「祖先崇拝をこえて」を掲げ、同調したことは実に興味深い。また、戦後も戦前に引き継いでラジオ放送された友松の「法句経講義」も聴講していたようである。

開祖の『教範』第一編の「宗教とは何か」から「正しい釈尊の教え」までの、一連の日本仏教への批判的アプローチは、上述した原始仏教の諸研究に立脚したものであることがわかる。開祖の宗教遍歴は中国・日本での体験が主なものであったとされるが、こと釈尊逢着への道程は、かなり長い期間にわたる自身の苦悩と自問の繰り返しのうえになされた、学究的なものであったかと思料されるのである。

(文/今井 健)