vol.34 釈尊の言葉「法句経」(上)

2014/06/20

aun_m_vol34聖句「己れこそ己れの寄るべ(略)」と「自ら悪をなさば自ら汚れ(略)」の二句は、「法句経」に拠ったものである。

「法句経」は釈尊が自ら説かれた語句を集めたもので、パーリ原文ではDHAMMAPADA(ダンマパダ)という。「ダンマ」とは「法(真理)」、「パダ」は「言葉」で、「ダンマパダ」は「真理の言葉」、まさに釈尊の生の言葉を伝えたものである。 「法句経」は全部で423句ある。「聖句」の二句はそれぞれ160番、165番にあるが、423句のうち二つだけを唱えていることが少し気になる。

そこで聖句の後ろ盾となる、釈尊の言葉「法句経」を調べてみようと思う。テキストは友松圓諦著『法句経』(講談社学術文庫)の現代語訳を使う。まず聖句であるが、160番、165番を改めて当たってみよう。

「まことに自己こそ自己の救護者である。一体誰がこの自己の外に救護者になりうるものがあろうか。よく制せられた自己にこそ、吾らは他にえがたき救護者を見出すことが出来る」(160)
とある。「救護者」という語によってこの句は、自己の他に救うものはなく、他に崇拝する何者もないという、極めて主体的で無神論的な意味を持つことになる。

「自分で悪い行為をするならば、自らはけがれ苦しむ。これに反して、自分で悪い行為をしなければ、自らは清らかなものとなる。こうした清らかさとけがれとは共に自らに熟する。だから、いかなるものも他人を清らかにすることは出来ない」(165)
とある。清らかさと汚れとは「共に自ら熟する」ものであると、実に透徹した目で人間を見ている。行為の責任を神々や僧侶、儀式、生贄によって解消することはできず、行為者がそれを負うとしている。ここでも釈尊は当時の宗教慣習に反する立場を取り、「自己」の行為の重さを諭している。

それでは「自己」の行為をどう整えるのか。こういう句がある。
「自分自ら自分を責めいましめ、自分自ら自分を検めなさい、かかる自らを守りつつしみ、正しく反省する者は、比丘よ、常に幸福に生活するであろう」(379)

つまり自分を責め戒め、検め、慎み、反省することを求めている。そして「善良な馬を調御するように自らを調えよ」(180)とも言っている。またある句では、
「沈黙を守るとも愚かで智見なきものは牟尼(聖者)とは言われない。智者は丁度計量器を手にしているように、善を自らえらびとり、悪をすてる。(略)」(268)とあるように、全体最適をもたらす平衡感覚をもって取捨選択することを訓えている。これは中道の考え方に結ぶ句でもあろうか。

このように「法句経」は全句を通じ、「自己」に対する峻厳な教訓で満ちている。引き続き、修行者の姿勢、釈尊の理法などについて当たっていきたい。(続)
(文/今井 健)