vol.36 釈尊の言葉「法句経」(下)

2014/10/01

aun_m_vol36「法句経」には後の世まで仏教の理法とされる重要な言葉も述べられている。三帰依・四諦・八正道についての句を列挙してみよう。

「仏陀と達磨(ダルマ=ダーマ)と僧伽とに帰依するところの人は正しい智慧を持って四つの尊い真理を見ることができる」(190)

「四つの尊い真理とは、人生の苦しみなること、その苦しみが何によって起こってきたかということ、次にはこの苦しみの離脱、次には苦の滅尽に達する八種の尊い形式のことである」(191)

「八つの正道はこの上もない道である。苦集滅道の四句は多くの真理の中において最上である。盲目的欲望を離れることはもろもろの徳の中で最勝である。両足を持つものの中で最も尊貴なものは真相を見る目を持つものである」(273)

言うまでもなく、仏陀とは精神的自由に到達して目覚めた釈尊、達磨は釈尊の説示された教法であり真理、僧伽は釈尊を中心とした平和な修行僧団のことである。およそ仏教を信じる者はこの三宝に帰依するのである。

191番と273番には、四諦、八正道がそれぞれ尊い真理、この上ない道として明示されており、盲目的欲望を離れることが最勝の徳であるとしている。「両足を持つもの」とは人間のことで、人間は最も高貴なものに至ることができる存在であることを述べている。これらは釈尊の思想の根底をなすもので、仏教の人生観であり世界観である。

さてこのように「法句経」の教えの道に進んでいったときに、在家であれ出家であれ、ついには至るところの真の幸福について示された句がある。

「健やかさはこの上もなき利益である。足ることを知るのが極みのない財産である。信頼することこそ例えがたき親族である。精神的自由は誠に最上の幸福である」(204)

健康は最上の利益、満足は最上の財産、信頼は最上の縁者、心の安らぎこそは最上の幸せであるといっている。ここでいう親族とは釈尊当時、家族というのではなく、団結の一単位、行政の一小区、すなわち共同体(僧伽)のような概念であったという。次の句は僧伽をはじめとした人間集団においては、賢者と道行し、同住することの大切さを諭していることは実に興味深い。

「誠に愚かな者に伴って道行くものは彼の長い路を苦しまねばならぬ。……愚かな者と一ところに居ることは、ちょうど敵と同住するように、絶ゆることなき苦しみである。これと反対に賢者と一ところに居ることは、ちょうど親族と相会うように幸福なものである」(207)

「法句経」の平凡に見える句を読み噛みしめていくと深い哲理を感じる。観念的にではなく世態に切り込んでの鋭さがある。それらは辛辣で激しく、しかも合理的である。当時の宗教慣習に釈尊が深く切り込まなかったならば、仏教という革新思想は決して興起していなかったことを思い知らされる。

聖句の後ろ盾である、釈尊の言葉「法句経」は実に重層であり、その根底は極めて深淵である。
(文/今井 健)