vol.35 釈尊の言葉「法句経」(中)
2014/08/20
前号に記したように、釈尊は極めて個人主義的といえるほど峻厳な「自己」を求めている。そのような自己を確立しようとすれば、とかく自己に甘い人間のことであるから、日々、自己の非を見逃し、知らず知らずのうちに、甘い自己弁護をつくり上げていく。その反省の漏れを救うために、集団による監察や抑制はどうしても必要となり、修行の列に入るのである。
修行者の姿勢について、例えば経文の読誦について次のような句がある。
「たとえ意味深い経文の数々を読んだところで、その教えを実際に踏み行わないで安逸を貪っているならば、そうした人はちょうど、あの牧者が他人の牛を数えているのと同様である。そうした人は修行したところで何ものをも得ない」(19)
「たとえ意味深い経文をほんの少ししか読まないでも、正義の法をさながらに実践して、貪りと、怒りと、愚かさを払い捨て、真実の智識に到達し、精神においての自由を得て、この地上に心を引かれず、かの来らん世をも憧れぬ人こそ、修行者の列に入ることができる」(20)
牧者は自分の牛を持っているのではなく託されて数えているだけである。同様に、いかに経文を口にしても、その内容を実行するのでなければ、それは実に虚しい行為といわねばならない。経文は儀式の盛況や賃金の増収のためではなく自己の実践を動機付けるものでなければならない。20番の句では、貪瞋痴すなわち三毒に触れているが、もう一つ重要なことは「この地上」つまり現世と「かの来らん世」すなわち来世、いずれに対しても憧れぬ姿勢、束縛されぬ精神的自由を修行者に求めていることである。
そして真の修行の価値というものを次の句で訓えている。
「たとえ百年も生きていようとも、怠惰にふけり努力が乏しいような人よりは、撓まない努力に達した人のたった一日生きている方がましである」(112)
これが釈尊の修行の時間軸である。今日の生命尊重の持つような冗長なものではない。そして老いについても、
「吾らの身体というものは、骨で作られた城市のようなもので、肉と血とで悉く満たされており、その中には、老衰と死滅と、更にまた高ぶりと偽りとが隠されている」(150)とこれまた冷徹である。
「ただ頭が白髪で覆われたからとて、決してこのことによって彼は長老であるというわけにはいかない(略)」(260)
「人生の真相を知り、教法をわきまえ、慈愛と自制と謙譲とを具え、自らの心の汚れを除き捨てた賢者、彼こそ誠に長老というべきである。」(261)
どこまでも学人的修行を求めるのが釈尊である。寿命を時間軸では捉えず、あくまで正義に立脚すべきものとして倫理的に捉えていることが分かる。(続)
(文/今井 健)