Vol.17 黙々と、ひたすら黙々と

2015/05/15

前回、宗道臣の敬愛してやまなかった、旧高松藩主の末裔(まつえい)・松平頼明氏との出会いの一齣(ひとこま)に触れましたが、今一人、宗道臣の知己として、黎明(れいめい)期の少林寺拳法を支えた大切な人がいます。初代・少林寺拳法有段者会会長の元・香川県知事・金子正則氏です。

金子氏が初めて宗道臣と出会ったのは1952(昭和27)年、知事就任2年目の春。当時、香川県庁の職員で、後に東京の少林寺拳法の草分けになる内山滋氏が、香川県庁に少林寺拳法クラブをつくりたいと金子知事に繰り返し繰り返し直談判し、その熱意にほだされたというか辟易(へきえき)した結果でした。

「あのときの宗さんは気合が入ってたよ」。金子氏は後に語っています。「少林寺拳法を見にきたのに、いきなり、敗戦後のこの国のありさまをどう思うか……だったからね」。当時の本部は、多度津の路地裏にひっそりと建つ60畳の道場でした。

金子氏の宗道臣への肩入れは、このときから始まりました。その翌月には、香川県庁大会議室での公開演武会に臨席、10月には多度津工業高校(現・多度津高校)体育館で開いた第3回少林寺拳法大会に金子氏が大会長を務めています。以来、宗道臣が亡くなるまで、ほぼ30年に及ぶ、心のこもった交誼(こうぎ)でした。とりわけ最初期の1950年代から60年代にかけては、自他共に許す少林寺拳法の応援団長として、鏡開きや全国指導者講習会など、本部主催の主要な行事という行事に出席するのが慣わしでした。金子氏は、現職知事として可能なかぎり・できる範囲で少林寺拳法の発展に力を添えました。宗道臣も、金子氏の好意に対して誠意を尽くして応え、相互の信頼は年を経るごとに深まりました。

1966年、四選目の知事選の折には、対抗馬を立てて四選を阻止しようとする動きがあり、これに同調する周囲の反対が強くなったのです。それをはね除けて出馬を表明したため、金子氏は一時孤立状態になりました。宗道臣は、「こんなときにこそ力にならねば」と、金子氏を励ましに出かけ、決済をもらいに来る職員以外訪れる客とてない知事室で、宗道臣は終日座り続け、金子氏は黙々と、ひたすら黙々と筆を執り、「拳禅一如」「力愛不二」の書を何枚も何枚も書き続けたといいます。今も、このときの一枚、「力愛不二」の書が、本部錬成道場の正面に掲げられています。

しかし、1974年、七選目に出馬しようとしたときには、宗道臣は「あまり長すぎるのは、県民のためによくない」と直言し、金子氏も取り止めたものでした。もちろん、知事を退いてから後も、両者の友情は変わることなく続いています。

鈴木義孝

1930(昭和5)年、兵庫県神戸市に生まれる。大谷大学文学部卒業、姫路獨協大学大学院修士課程修了。16年間の中学・高校教員生活を経て、69年より 81年まで、金剛禅総本山少林寺、社団法人日本少林寺拳法連盟、日本少林寺武道専門学校の各事務局長を歴任。金剛禅総本山少林寺元代表。現在、一般社団法 人SHORINJI KEMPO UNITY顧問。194期・大法師・大範士・九段。

鈴木義孝