vol.41 助け合いながら本物の大人に

2016/03/03

親による子供の虐待が毎日のようにニュースになる昨今です。

ゲームしたさに生後間もない乳児をポリバケツに入れて死なせたり、言うことを聞かないからとウサギのケージに監禁し最終的には殺害したという事件や、同居する女性の子供に対し「3歳児が俺にガンをつけた」といって暴行し傷害致死事件となるなど、挙げたらきりのないほど続いています。

「なぜ泣くの!」とパニックになるという人もいるようです。赤ちゃんは泣くものです。出産後最初の呼吸といわれる産声、何とも感動するものです。そしてその後は、おなかが空いたり、おむつが汚れて気持ち悪かったり、身体の不調を訴えたりという状況伝達手段が泣くことです。だんだん知恵がついてくると、甘えて泣いたり、そのうち顔だけ泣き顔をして見せたりします。

そうして泣き声から言葉や態度で自己主張をするようになり、どんどん進化していきます。人間誰しも通ってきたそんな当たり前の過程は、親にとっては、大きな喜びと気力と体力で乗り切り、人として成長していく機会となり、子供にとっては、褒められたり叱られたりを経て“親のまなざし”という愛情を感じながら、大人になっていく機会となるのではないでしょうか。核家族で、しかも直接的な人間関係が希薄でネットつながりの人間関係を好む社会では学ぶことはできないのでしょう。ポン!とボタンをクリックしたら料理のレシピが出てくるように、子育ての方法が出てくるわけではありません。

何か月も親が食べるものを我慢してでもじっと耐えて寒さから子供を守るペンギンや、水や食料の乏しいサバンナで親が狩りをする間声も立てずずっと潜んでいる子ライオンも、みんな親や集団の中で学び成長していきます。

自然界の動物と違い、人間は厳しい環境の中で生死を目の当たりにして学んだり、助け合うことが生きることにつながっているということを実感する機会が、もはやほとんどなくなっているのかもしれません。

他人(ひと)を慈しむこと。生を全うすること。この基本的なことを、どうやって現代人は学べばよいのでしょうか。

生を全うするとは、寿命が尽きるまでただ生きることではないと考えます。

宇宙の大きな力の中で、生命を与えられて生まれてくるわけですから、そこには可能性にくるまれたそれぞれの役割があり、その可能性をあらゆる方法で広げ磨くことで進化し、人生も面白くなると私たちは考えています。他人を慈しむということも、いちばん小さな社会である親子の関係の中や、大人として育っていく環境の中で養われます。

子供に対する虐待事件を起こす人たちは、果たして自身の親に感謝したり、親から「ありがとう」の言葉をかけられたりを、どれだけ経験しているのでしょう。

孤児か、両親がそろっているか、経済的問題かではないような気がします。

施設で育った人が集団生活の中で多くを学び、成人したあともたびたび施設を訪れ、後輩たちのために一生懸命相談に乗っていたり、母一人子一人で親の苦労を見ているからと親孝行している人もたくさんいます。もしかすると、虐待やいじめに走るのは、経済的には何の不自由もない環境で育ったけれど親との会話もないとか、親からの身体的虐待や精神的DVを受けた過去を持ち、その後も信頼できる人間関係の中で生活することのできなかった人のほうが多いのかもしれません。

欧米の社会では、家族間で「愛してるよ」と日常的によく言います。文化習慣の違いではありますが、今の日本社会には、かつての時代の“言わなくても察するのが当たり前”という“阿吽(あうん)の呼吸”は通じませんから、言葉は違っても、常に言葉や態度で示し伝える努力と、相手を思いやり察する努力をする必要があるように思います。

親ではなくても、全くの他人でも、「あなたに会えてよかった」と言ってもらえる人間関係をつくるには、直接人と触れ合い、自分のかける言葉や態度によって相手がどう感じるのか、喜ばれるのか不愉快にさせるのかをたくさん経験する必要があります。

少林寺拳法の創始者・宗道臣 は、明治の生まれにしては珍しく、どんなことも言葉や態度ではっきり伝える人でした。スキンシップも大切にした人でしたから、宗道臣の温もりを感じた人たちがたくさんいます。もちろん、娘である私もその例外ではなく、「ありがとう」の言葉をもらい、しっかり抱き締めてもらったからこそ、厳しく叱られても理解しようと頑張れたのだと思います。

少林寺拳法は、助け合いながら本物の大人になることを楽しめる集団でありたいと思います。