vol.45 真純単一に

2016/04/01

 教範の「金剛禅の主張と願い」の項では、「金剛禅と云うのは(中略)、生きている人間が、拳禅一如の修行をつみ、不屈の精神力と金剛身を養成し、まず己をよりどころとするに足りる自己を確立し、そして他の為に役立つ人間になろうという、身心一如・自他共楽の新しい道であり(中略)、現世に於て平和で豊かな、理想境を建設せんとする教えである。」と教示されています。
 そして、「昭和二十一年に帰国して以来、はじめから一貫して右のような教えをかかげて運動を続けてきたのは、宗教も、思想も、道徳も、科学も、すべて生きている人間のためのものであり、すべて生きている人間によって運用され、開発されているものであると云うことを知ったからである。」と、述べられています。
 金剛禅運動は、「全ては人による」を基本とし、幸福運動として展開していると考えて良いと思うのですが、その根本は、開祖が昭和六年の満州事変から、二十年の敗戦、二十一年の帰国迄の十六年間を二十歳から三十五歳という人生の最盛期に体験し、その中で、自らの果たすべき「使命」に気づかれたからだと思っています。
 人生における多感で重要な時期に、日々、死と隣り合わせで生きる事や、人の性(本性)に直面する事により、実体験の中で金剛禅の主張と願いに至り、その教えの軸を、釈尊の縁起の法とし、行の在り方を、禅宗の始祖達磨の不撓不屈とした新しい道なのです。
 全ては自らの事であり、正義を貫くには決して屈しない強い心が必要であると言う事を教示されたシンプルな教えであると私は理解しています。
 「真純単一に」と言う事は、正しいものは強くなければならず、原因と結果の因果をわきまえて生きる事であり、その上での自らの質の向上です。
 その中心がダーマ信仰。
 ダーマとは、理(ことわり)です。関係を示しますと、人によって行われ、縁起の法を信じ、全ては自己に帰し、不撓不屈の精神で生き、それを日々実践し、その中で、生かされている自分(感謝)に気づき、これらを積み重ねる(漸々修学)。この繰り返しが、金剛禅であり、ダーマ信仰の在り方ではないかというのが、現時点での私の理解です。
 入門は、金剛禅をその教えにそって真純単一に修行する事を誓わなければ許されません。よって入門を許されると、我々は同じ道の同志であると言っています。
 このことは重要です。
 真純単一にこの法を修行すると言うことは一所懸命習得しようとする気持ち(精進)の共鳴です。他の考え方を、金剛禅と照らし合わせて議論するのではなく、前述の開祖の体験からなる教えの原点を、主張と願いに照らし合わせ、易筋行と鎮魂行を主行として漸々修学することが我々の行の基本ではないでしょうか。
 かくなる我は、日々の煩悩は消えず、小さな事にくよくよしながら、ストレスの中で生きています。こんな中でも、同志と共に汗を流し、語らい、我に帰る道院修練や帰山等は、良き導きとなっています。
 煩悩の凡夫そのものです。
 正しきものは強くあれ!(土光登美)
 悔いなき人生のために。
 生きている間は負けてないのですから。真純単一に・・・・。
(文/松本 好史)