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vol.47 峠徹 中導師正範士七段 227期生

2016/08/01

私を生かしている縁の妙
京都京極道院 道院長 峠徹

1940(昭和15)年11月、兵庫県生まれ。同志社大学卒業後、63年に丸増㈱入社。68年京都別院にて入門。74年丸増支部設立(~95年廃止)。2000年京都近鉄文化サロンカルチャー設立(~06年廃止)。2006年京都京極道院設立。本山考試員・審判員、論文審査員をはじめ、少林寺拳法武道専門コース教師、京都府少林寺拳法連盟理事長、関西実業団連盟の各役職を歴任し、2011年より名誉本山委員に就任、現在に至る。

京都京極道院 道院長 峠徹

夢と希望を抱いて踏み出した社会
 私は兵庫県に生まれ、大学入学と同時に京都へ出ました。大学卒業後はすぐに就職し、服飾関連の丸増㈱に入社しました。入社当時、明るい将来を描いていた私は、夢と希望でいっぱいでした。ところが、現実の社会は厳しく、自社の利益追求だけを優先する企業があったり、自分本位で、人の足を引っ張り、嘘をつく人がいたり、私が思っていた世界とは全く違っていました。とは言え、仕事は一生懸命やらなければと、3年程頑張ってきましたが、ついに精神の方が耐え切れずノイローゼにかかってしまいました。周囲には心配をかけまいと、ノイローゼであることを見せないように平静を装う、そんな状態が1年半は続きました。その間、何となく気がついた人からはある宗教に入れと説得されたり、自ら滝行に参加したり、いろいろ試してみたりしましたが何の効き目もありませんでした。何とかしなければと切実に思っていたある日、ノイローゼの原因が、自分の思い通りではない現実にあることに気づきました。ならば、と自分のやりたいものは何なのか、と自分に問いかけてみたのです。そうして出てきたのは、仕事でも何でもなく、なんと空手だったのです。少年時代から潜在的に「強くなりたい」という思いがあり、また禅のように心を整える生き方にも魅力を感じていました。空手については、ちょっとだけ経験があり、途中で辞めた負い目が心のどこかにあったので思い浮かんだのでしょうが、強くなれたら何でも良かったんです。
 そんな状態のある日、私は風邪を引いて寝込んでおりました。そしてふと新聞のテレビ欄に「少林寺拳法」という語を見つけて、テレビをつけたところ、りりしい法衣姿の拳士の演武が放映されていました。強烈な印象です。この瞬間、これしかない、と思いました。今思うと、ダーマの導きにより、私が求めていたものがようやく見つかった、ということになるのでしょうか。
 さっそく入門しようと思って会社の電話交換室に行って、どこかに少林寺拳法の道場がないか、と尋ねたところ、これもダーマの導きだと思うのですが、電話交換室の職員さんの家の隣に住んでいる人が、達磨寺で少林寺拳法をしていると教えてくれたのです。早速、達磨寺の中にある京都別院をたずね、68年2月、27歳で入門することになったのです。
 京都別院は開祖自らの手で建立されたという由緒深い道院で、ハードな稽古もありましたが、格闘の技術を練習しているにもかかわらず、人間関係がとても温かく、こんな世界があるんだ、という驚きと喜びでいっぱいでした。また初段を允可されたら武専に入るということになっていたので、待望の黒帯を締めるとすぐに大阪の十三にあった関西武専に入学しました。入学式の時に、ちょうど開祖が出張して来られ、身体から威容なオーラを発する開祖の姿に息を呑んだ思い出は今も鮮明です。おかげさまで京都別院では、6年間修行させていただき、正拳士四段を允可されました。入門まで苦しんでいたノイローゼは、半年できれいさっぱり治っていました。

1971(昭和46)年 本山境内にて(中央)

1971(昭和46)年 本山境内にて(中央)

1977(昭和52)年 社内の発表会での写真

1977(昭和52)年 社内の発表会での写真

 

 

 

 

 

 

所属長として独立
 昔は今のように拳士が高段者になっても、10年、20年と長くその道院で修行するという状態ではなく、当時は三段になると胸章が赤卍になって後輩の指導にあたるようになり、やがて道院を設立するか、それをしなければやることがなくなって、次第に足が遠のくようになってしまう時代でした。下からは後輩たちがどんどん上がってきます。赤卍の人達に憧れ、いつしか自分が先輩赤卍に取って変わると、今度は後輩赤卍たちが追い付いてきて、自分が取って変わられる立場になります。仕事のためにしばらく稽古を休んで、久しぶりに道院に行くともう後輩赤卍が指導しているということがあり、差し出がましくて、自分の出る幕がない、今度は自分の居場所がなくなる、そんな雰囲気がありました。
 そんなことで、私自身の中で独立しようという気持ちが強くなり、会社の中に支部を作りました。それが1974(昭和49)年、丸増支部の設立です。
 私は一社会人として出世もしたいと考えていましたし、少林寺拳法もしたいと考えていましたので、当時の状況で道院を出していたら、とてもじゃないけど仕事ができなくなります。どちらもやろうと思ったら会社内に支部を立ち上げるしかなかったんですね。昼間はしっかり仕事をして、夜は少林寺拳法をやって、社員を教育して会社を良くしていこうと決意しました。会社の方は、「良いことだから、ぜひやってくれ」と喜んで設立を許可してくれました。結局この丸増支部で25年間やってきました。

1980年(昭和55年)関西実業団連盟での新管長(現少林寺拳法グループ総裁)を囲む会

1980年(昭和55年)関西実業団連盟での新管長(現少林寺拳法グループ総裁)を囲む会

京都祭りにおいて 旗手を務めるのが峠道院長

京都祭りにおいて 旗手を務めるのが峠道院長

 

 

 

 

 

 

 

丸増支部の廃部
 実業団は会社の経営状態によって左右され、部を運営できなくなることがあるため、栄枯盛衰が激しい世界です。景気が良い時には採用も多く、少林寺拳法部も活況を呈しますが、景気が悪くなって、不景気のどん底になると、リストラが行われ、一人稽古もやむなし、ということがたびたびありました。私は総務部長の時に多くの仲間をリストラしたのですが、中には一緒に汗を流した元部員さえおりました。
 一人でリストラをやっていましたので、上司はお前が困ったらいつでも行くぞ、と言ってくれていたのですが、リストラを終えると今度は「君の年収を払うための売り上げ予算が組めないと営業が言ってきた」と苦渋をにじませて言いました。つまり、私に辞めろと言うことです。私もたくさんの仲間を路頭に迷わせてきましたので、当然のことと受け止め、すぐに会社を辞めました。会社がこんな状況ですので、丸増支部は私の退社と同時に廃部となりました。辛く切ない思い出です。

新たな縁
 それでどうしようかということになりました。「どうしようか」というのは、勿論少林寺拳法をどうしようか、ということです。当時55歳が定年で、私は59歳まで働くことができましたので、仕事を辞めることに、全く問題ありませんでした。
 そんな時に、またダーマのおかげでご縁が生まれました。当時、私にはある人を介して京都近鉄百貨店の人事部長でもあり、同じような仕事をしていたことや大学が同じだったことから友達になった人がいました。ある日その人から、「峠さん、会社をやめてから少林寺拳法はどうするの」と聞かれました。私は「実は困っているんです。会社は首になったので、やりたくてもやるところがないし・・・」と言ったところ、「うちに京都近鉄文化サロンカルチャーというのがあるので、そこでやりませんか」と手を差し伸べてくれたのです。そうしてできたのが、2000(平成12)年、京都近鉄文化サロンカルチャーです。
 困っていたことが、信じられないようなタイミングでひょいと解決してしまったのです。「もうあかん」と思っていても、一生懸命やっていたら誰かが手を差し伸べてくれると聞いたことはありましたけど、まさか私にそんなことが起こるとは思ってもいませんでした。こうしてカルチャー支部を設立し、6年半続ける事ができました。
 カルチャーは道院や支部とは違い、教室に技を習いに来ているという感覚の人が多いのですが、私は京都別院の時から、会社であろうが、カルチャーであろうが、根底にあるのは、金剛禅思想による人づくりだと強く思っています。これだ、という教えは拳禅一如と力愛不二。二度と戦争のない平和で豊かな世の中を作る為の人づくりは、どこで修行しようと関係ありません。法律上は縦割りの組織に別れていても、金剛禅の理念は一つであり、その理念を実現する為には、横にしっかりとつながっていないといけない、と今でもずっと思い続けています。

更なる縁、縁の妙
 ところが、今度はそのカルチャーが廃止になるという危機が訪れました。当時、私は京都府少林寺拳法連盟の理事長を拝命していました。このままでは懸案を抱えている理事長職を辞めねばならなくなる。たとえて言うなら、現職の大臣が選挙で落ちるようなものです。とにかくどこでもいいから道場を何とかせないかん。でも、どないしようもない。一緒に苦労していた川上事務局長と二人で本気で悩んでいた矢先でした。今の専有道場がある光明寺の中に、道院として使える場所が作られ、そこでやらないか、という話が舞い込んで来たんです。早速、道場を訪問して、そこの住職さんにお会いして驚きました。なんと旧知の仲の嵯峨野高校少林寺拳法部の部長だった岡政俊先生だったのです。思わずダーマの法縁の妙に感嘆の声を上げました。会社の屋上や、食堂でもないし、カルチャーの小さいところでもない。かつての京都別院をほうふつさせるすばらしい道場でした。ここが終の住処だ、と思いましたね。こうして2006(平成18)年、京都京極道院を開設して今に至っています。

専有道場のある光明寺

専有道場のある光明寺

専有道場内観

専有道場内観

 

 

 

 

 

 

 

金剛禅の教学と開祖のひと褒め
 結果論ですが、私の豊かな少林寺拳法人生は、ホップ、ステップ、ジャンプの三段飛びに当てはまります。ホップは6年間の京都別院時代であり、精神的な病を癒すことと、正しい人間の生き方を学ぶ温かい人間関係に恵まれた時代です。ステップは、25年間の実業団の活動で、自分なりに金剛禅の教学をかなり深めることができた時代です。これは熱心な支部長たちとの人間関係に恵まれたからできたことです。そしてジャンプは、開祖の夢と希望がいっぱい溢れた京都別院の志を正しく継いでいる京都府教区(連盟)に加わらせていただいてから現在までの16年余の時代です。この社会と接する道院の活動、すなわち人づくりの道は、音をあげたくなるほど難しいと感じています。しかし、これに意欲をもって挑戦し続けられるのは、京都別院の建立に偉大な支援をされた故坂口繁蔵夫妻や、振興会の設立当時からお世話になった高野昭氏はじめ発起人、歴代の会長さんや役員さんなど、あふれるような善意いっぱいの社会人の方々との人間関係でいただいた力があるからです。
 人間としての生き方がわからずノイローゼにかかっていた私が、このように元気に頑張れるようになったのは、すべて開祖からいただいたエネルギーと、全国の先輩諸氏と、地元のご縁のある方々の激励による力です。特に開祖は、私が入門した当時はすでに雲の上の方でしたので、本部武専に通って聞いた10年間の法話と全国レベルの大会での法話が現在まで活動できた私の生命であり、エネルギーでもあります。
 特に思い出深いのが、1979(昭和54)年11月の、開祖の最後のご臨席となった第三回実業団全国大会です。この時のパンフレットにおいて私は、21ページにわたって「金剛禅の原点」と題して学習のページを掲載しました。「こういうものを載せても丸めてぽい、とされるぞ」という意見もありましたが、「じゃあ、価値のあるものを作ってやろう」と意気込み、一生懸命書いて本部へ何度も足を運び、完成させました。
 大会は盛況のうちに終了しました。そしてその月の本山の定例で開祖が「実業団大会で素晴らしいパンフレットができた。教範のエッセンスをうまくまとめてくれている。金剛禅運動が各地に根が降りているのを確信できて嬉しい」と褒めてくださったのです。(あ・うんvоl.09)開祖語録ダイジェスト掲載)実際に私に面と向かっては言われなかったのですが、準備段階の時にこの件で本山を訪れた時、管長室に呼ばれて、「君はどこで勉強したのか」との問いに「京都別院です」と答えたところ、「そうか」と言われました。それ以上、開祖は何も言われなかったのですが、私には大変な褒め言葉で、とても嬉しく感じました。特に偉い人が褒めるということは、人をつくっていく上でとても重要だと思いました。その時の開祖のひと褒めによって、私は今日まで金剛禅学習を続けられ、退会して16年も経つのに、いまだに私はふるさとである関西実業団連盟の大会パンフレットに、OBからの提言として寄稿をさせていただいているのです。そのためには、私は自分で昭和史を勉強し、同じ題材の本であっても金剛禅の視点に立って検証し、教学を深めてきました。
 特に昭和史を勉強していて私が感じるのは、「人の質」です。どっちの国が正しいか悪いかではなく、その人の判断、行動によって良いも悪いも含めてどんな結果になったか。これが大事なんです。人の質によって、そこが天国にも地獄にもなる。金剛禅は戦時中の歴史背景、開祖の体験が教えの基盤になっているのですから、当時の歴史を学ぶことは何よりも大切であると思っています。

パンフレットに寄稿した学習のページ

パンフレットに寄稿した学習のページ

日本があった 
 この実業団大会では生涯忘れられないことがあります。それは大会の開会式で自衛隊員の拳士による国旗の入場式を行いました。賛否両論はありましたが、これを見られた開祖が、その時の法話で絶句されたんです。
 1945(昭和20)年の敗戦の直前、突然中立条約を結んでいたソ連軍が、ソ連と満州の国境から突如侵攻してきました。関東軍は先に逃げてしまっていたので、遥か満州に残された邦人たちは、言語を絶する修羅場の中を、多くの犠牲を出しながら、命からがら祖国日本をめざして逃げてきました。開祖もその中の一人でした。ようやく港まで来ても日本の船は横付けできず、代わりにアメリカの上陸用舟艇が引揚者の迎えに来ました。日本は敗戦国でしたから、日の丸代わりに菱形の赤い布切れを肩に付けさせられていた時です。昨日まで敵国として戦っていたアメリカが、粋なことに舟艇の舳先に日の丸の旗を付けて迎えに来てくれたそうです。それを見て開祖は「日本がまだあったのだ」と感激されたそうです。この時の話をしながら開祖は突然絶句され涙を流されました。私はその話を、息を呑むように聞き入りました。戦後の日本の自虐的教育に影響されていた私でしたが、この時以来、日本について真剣にそのあり方を考えるようになりました。準備に1年半かけてきた大会であったこともありましたが、多くの教訓を得ることができて良かったと感激いたしました。
 日本の歴史を語る時に、日本の戦中・戦後を自虐的に捉える人と、やむを得ない戦争であったと捉える人と分かれますが、この時に私たちには開祖の思想が生きてきます。人間に右も左もありません。ふりかかる火の粉は払わなければいけませんが、二度と悲惨な戦争をしてはならないのです。それには宗教やイデオロギーの違いを超えた人間としての尊厳を大事にしていくという考え方、正しい釈尊の教えを大切にしていかなければならないのです。そうあるためには、日本は、諺どおり、遠くの親戚よりも近くの他人、を大切にしなければならないのです。開祖は当時、敵だった中国人にも助けられているわけです。満州では残ってくれとさえ言われています。ちゃんとした生き方をしていたら相手もちゃんとしてくれるんです。

横のつながり
 開祖亡き後の翌年の1981(昭和56)年に、京都で少林寺拳法の後援会を作らないか、と言う話が持ち上がりました。当時京都鴨川ライオンズクラブの会員であり、伏見道院の拳士でもあった高野昭氏(現京都府少林寺拳法連盟会長)から事務局長をしていた関係で私に話があり、願ってもないことなので準備に奔走して、その年の12月に京都府少林寺拳法振興会が設立されました。これは少林寺拳法の在り方、特に青少年育成に賛同した部外の人たちが浄財を寄付し合って、我々の活動を支援することを目的に作られた組織です。京都府の少林寺拳法が、縦わりの組織が横にしっかりとつながった強い組織になって活動できているのは、開祖が建立された旧京都別院との精神的つながりと、この振興会のおかげである、と言えると思います。
 これは誰それ個人がやったことではありません。京都の拳士皆で、開祖が言われたことを実行しているだけなんです。「一生懸命やっていたら誰かが応援してくれる。世の中には応援したくてかなわない人がいっぱいいる。それをどうやって引き出すか。それは君たちの力次第だ。」と。個人のためにやったら絶対に成功しません。組織のために働いて、組織と自分の両方が良くなるというのが一番良いんです。
 私にも得手不得手がありますが、組織は、それぞれ得意なものを持った人が集まり、得意なものを生かしてそれぞれの役割を演じてこそ発展するのです。そのためには多少大変であっても組織のために自分ができることは一生懸命やるということが大事なんですね。

社会での実践が道院
 私は実業団の支部長も道院長も経験していますが、同じ土俵で比べられるものではなく、実業団は部内との関わりが中心であり、道院は外との関わりが中心になります。実業団では思想を勉強しロマンに燃えて社員教育をし、その成果と言うのは会社の中で見ることができました。しかし、道院は色んな人が来ますから、人を育てるということはかなり至難なことです。成果が出ないうちに辞めてしまったり、縁がなくなって切れてしまったりすることもたびたびあります。道院で指導を行っても、その人が道院の外でどんな行動をしているかまですべて把握できません。いったいいつまでにどこまでのレベルになったら人が育ったと言えるのか、評価ができないのが人づくりの難しさです。
 それでも私たちは人づくりを主張し実践しなければなりません。このように金剛禅の社会での実践は、苦しみ、難しさはありますが、それがやりがいでもあり、楽しみでもあります。苦と楽は一如であり、決して別々ではないのです。
 会社員人生では落とされたり、裏をかかれたりしましたが、金剛禅の人生は違います。道から外れずに行けばいつかは認められ、間違っても、それを正して進んでいけば良いんです。その中で何かが自分の中に残っていきます。何か行動を起こせば必ず結果が出ます。そして結果が蓄積されたらそれはデータとなって身になります。
 結果は人生の一里塚となり、後で振り返るとそれは大事な一里塚であり、それはすべて一つの流れでつながっていて、自分のやっていることが間違ってなかったと思えるようになります。
 今後も門信徒と真剣に向き合い、金剛禅の道を、組手主体、面授面受、以心伝心で、一人一人の心に伝え、刻み込んでいきたいと思っています。

京都京極道院の初期に入門した拳士達、拳士一人一人が峠道院長の宝である

京都京極道院の初期に入門した拳士達、拳士一人一人が峠道院長の宝である

宗道臣デー活動にて

宗道臣デー活動にて

修練風景

修練風景