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vol.45 今は

2016/04/01

 少林寺拳法を始めたきっかけは不純でした。
 今から42年前のこと、若かりし十九歳の三月初め、先に入門していた友人に誘われて四日市道院(故北岡隆弘道院長・当時)へ見学に行きました。ブルース・リーの「燃えよドラゴン」全盛の時代です。道院長には「少林寺拳法には勝敗がない。」と説明を受けたことを、今でも覚えています。
 見学の帰りに、ゲーム機が置いてある喫茶店に入り、言われるままに、面白半分でそれをやったところ、百円が一万円になりました。そのお金で入門香資、信徒香資、道衣代を支払うことが出来ました。それがなければ入門していなかったかもしれません。
 ふざけているのかと、先輩諸氏には叱咤されるかもしれませんが、不純なきっかけとは裏腹に、入門後は修練が楽しくて楽しくて、少林寺拳法にのめり込みました。初段を允可された頃には、既に道院長になると決めていました。ただその頃は、金剛禅についてはまったく知る由もなく、技術のみの修練でした。
 四段允可後、オーストラリアでの少林寺拳法の普及を志していた時、1981年に武専本校が開校すると知り、少林寺拳法のメッカで学ぶことが一番と、26歳の時、結婚と同時に勤めていた会社を退職し入学しました。妻は本部職員、私は武専学生という新婚生活を多度津のおんぼろ借家で過ごしました。
 卒業間近になった時、鈴木義孝先生から、卒業したら山に残れと有難いお言葉をいただきましたが、夢を捨て切れずお断りしました。すると、奥さんだけでも置いていけ(笑)と言われ、さすがに驚きました。必要だったのは私ではなく妻の方だったのです。今では鈴木先生を囲んで、仲間と酒を飲む時の楽しい思い出話となっています。
 渡豪直前に母が病に倒れ、そのまま他界したため、父を残していく訳にもいかず、オーストラリア行きを断念し、地元での道院開設となりました。
 道院開設後は無我夢中でした。家庭、仕事と、少林寺拳法の両立は非常に厳しいものがありましたが、家族や職場の理解、門信徒の協力のおかげで続けることができました。
 私は少林寺拳法以外の武道を詳しく知りません。それなのに私が少林寺拳法を続けているのは、少林寺拳法でなければならない明確な理由があるからです。それは開祖の思いと金剛禅の教えに共感したこと、大きな目的に向かって帆を上げた金剛丸に、自ら乗り込んだという責任を全うするためです。
 開祖が我々に言い続けてきたことは、確実に未来を見据えており、創始より69年の時を経た現代においても、問題の核心をついています。今こそ開祖の言われたことを実践し、理想境を実現する時だと考えるようになりました。
 少林寺に入門して42年、指導者になって32年、人生の折り返し点を過ぎ、お世話になった方々への恩返しとともに、金剛禅布教者としてやらねばならぬことをどう実践していくのか、限られた時間の中で見つけていきたいと思っています。
 少林寺拳法を初めて見学に行った帰りに、あの喫茶店に行かなかったら、そして、もしゲームをしていなければ、今の私は存在しません。
 私が少林寺拳法を始めたきっかけは不純でした。しかし、きっかけはどうであれ、今は本気で、開祖の思いと、金剛禅の教えに向かい合って生きています。そしてこれからも。
(三重千種道院 道院長 中山文夫)