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vol.46 心身の改造

2016/06/01

 私は高校卒業後の進学を決める上で、あえて九州から遠方のところを選びました。と言うのも四人姉弟で年の離れた姉三人に私一人という家族の中で、大事に甘やかされて育てられたため、もっと自立し強くならなければという気持を常日頃感じていたからです。
 昭和四十一年、愛知県の名域大学に入学。同時に学生寮(至誠寮)に入り、そこで少林寺拳法に出会いました。この寮に居られた四国出身の宇野研一先輩が名城大学少林寺拳法部の創立者であり、寮の先輩の殆どがその少林寺拳法に入部されていた関係からです。練習は厳しく、その激しさに入部当初は百数十名いた部員も徐々に減ってしまったほどです。二年生に上がると演武組と乱捕組に分けられ、私は乱捕組に選ばれました。毎日毎日、胴とグローブを付け、殴りあい、蹴りあいの練習ばかりで、痛い足を引きずりながら、学校に通った思い出があります。練習で挫けそうに成る事も有りましたが、仲間達と励まし合うことでそれを乗り切り、根性も鍛えられ精神的にも強くなり、自信も付きました。
 その頃は少林寺拳法の本質も十分に理解しておりませんでしたが、春の本部合宿で開祖のお話を聞くことで、教えの素晴しさに感動し、帰山する喜びを感じていました。技術ももちろん大事ですが、人としての道、人としてどう在るべきか、人への思いやり、さまざまな事を少林寺拳法で学びました。卒業までの四年間、少林寺拳法を続けて自分を変えることが出来、本当に良かったと思っております。
 卒業後(昭和四十五年)はすぐに帰郷し、家業の自動車整備工場に入りました。資格を取得して一人前の整備士、経営者を目指して頑張り、そして結婚、昭和五十年長女の誕生を期に、念願の道院長を目指しました。
 ポスター貼りや修練場所の確保に走り廻り、市の施設を借りることが出来ました。三、四人からのスタートでしたが、人伝てに徐々に増え始めたためすぐに手狭になり、色んな場所を点々としました。仕事と少林寺拳法の練習に明け暮れていましたが、どうしても専有道場が欲しくて、工場の改築と同時に二階を道場にすると言う夢が実現しました。開祖から本堂で道院の認証書を戴いた時、壇上で「よろしく頼んだぞ」とお声を掛けて戴いたことは、しっかりと肝に銘じ、忘れる事は出来ません。
 一九八〇年、開祖がご逝去され、本山のあの坂で、涙で開祖を見送り、お別れをしたことも今でもはっきりと覚えております。道院設立から今年で四十年に成りますが、色んな先生方との出会い、色んな勉強をさせて戴きました。中でも鈴木義孝先生にはお会いしたら必ず「身体の調子はどうですか」とお声を掛けて戴き、本当に有難く、感謝の気持で一杯です。
 開祖ご逝去後、福岡県に於いては、別派問題等で大変な時期が数年続きましたが、県内の道院長が一致団結して乗り終えることができました。また一九九五年には、福岡ドームでの少林寺拳法連盟の全国大会でも、阪神淡路大震災の折りにも拘わらず全国からご参加いただいた皆様には、感謝、感謝の言葉しかありません。
 今回の組織機構改革により、県内でも活動継続をあきらめざるをえなかった道院が幾つかありますが、この改革は宗由貴総裁の決意と覚悟の下に成し遂げられたもので、いまだからこそ、進める事が急務であったことは理解しなければならないと思います。そしてその甲斐あって、金剛禅総本山少林寺の本来の姿、また開祖の思いが実現できたと思います。
 最後になりますが、私の人生まだまだ半ばです。道訓の中の夫婦相和しのところが、大きな声で唱和できません。私は、他人の為は自分の為、少林寺で得たものは少林寺に返す、この言葉を貫き通し、自分を変えてくれた、この道を命の続く限り、伝えて行きます。
(福田大川道院 道院長 森山 廣平)