Vol.03 この怒りは鎮めちゃいけない

2013/04/10

宗道臣11歳のころでした。ある日の夕食時、道臣少年が母と二人の妹と食卓を囲んでいるさなか、村の有力者が顔色を変えてどなり込んできたといいます。「お前んとこの鼻たれガキが、うちの孫を乗せた乳母車をひっくり返して、孫に怪我(けが)させた。どうしてくれる!」。

道臣少年には、まるで身に覚えのないことでした。その日、幼い二人の妹を連れて、近くの山へ薪取りに行ったこと、帰りに近所の悪ガキたちが数人固まって遊んでいたそばに乳母車があったことは、道臣少年も覚えていました。しかし、乳母車には触れてもいません。第一、ふだんから「貧乏人の子」とか「よそもん」などと絡んでくる連中なので、彼らと関わり合うことが煩わしく、わざわざ反対側を通ったぐらいなのです。全くの濡れ衣でした。それなのに、母親は有力者の前にべたーっと土下座して謝るばかり。しかも、道臣少年の襟首をつかんで、「お前も謝りなさい」と揺さぶります。言い訳一つ言えるような状況ではありません。

「こんなのおかしい」「この怒りは鎮めちゃいけない」。そのとき、道臣少年の心に火が付きました。実は、それまでの道臣少年は、ひたすらおとなしくて気の優しい少年だったといいます。8歳で義父が亡くなってから、昼は代用教員、夜は針仕事と、根を詰めて働きづめの母を助けて、炊事洗濯から妹たちの世話と、“まるで女の子のように”よく気のつく優しい少年だったのです。

「許せない!」。翌日、道臣少年は行動を起こします。薪(まき)ざっぽう(薪の棒)を手に、かの有力者の門前に行き、うそをついて告げ口した当の本人を呼び出すと、「親の後ろに隠れてコソコソやる卑怯者! 本当のことを言え」と問い詰めました。騒ぎに驚いて出てきたかの有力者も、息子から事情を聞いて、親子して頭を下げて詫びたといいます。道臣少年は、自分の力で冤罪(えんざい)を晴らしたのです。

優しい一方の子供から、たくましい男の子への成長の瞬間でした。それはまた、宗道臣の人生の骨格の一部となる、”正義感”の芽生えのときでもあったのです。

後年、往事を回顧して、宗道臣は語っています。「力ある者に向かい合うには、正しさだけじゃ歯が立たないという人間社会の常を、何か実感として、あのときつかんだんだ」と。

鈴木義孝

1930(昭和5)年、兵庫県神戸市に生まれる。大谷大学文学部卒業、姫路獨協大学大学院修士課程修了。16年間の中学・高校教員生活を経て、69年より 81年まで、金剛禅総本山少林寺、社団法人日本少林寺拳法連盟、日本少林寺武道専門学校の各事務局長を歴任。金剛禅総本山少林寺元代表。現在、一般社団法 人SHORINJI KEMPO UNITY顧問。194期・大法師・大範士・九段。

鈴木義孝