Vol.04 もっと力が欲しい

2013/05/10

宗道臣が8歳で義父を亡くしてから、一家は母の郷里に身を寄せていました。母・吉野は、昼夜を問わず懸命に働きますが、母子4人の暮らしはどん底すれすれでした。道臣少年も、妹たちの面倒を見ながら、家事万端にわたって母を助けています。しかし、働きづめに働いても楽にならない過酷な生活が、次第に母の身心を蝕み、過労で倒れたのを機に、ある新興宗教にすがるようになるのです。

信心に凝り固まった母は、やがてその教団の布教者を志すようになり、教団本部の布教師養成学校に入学します。その間、3人の子供はバラバラに親戚の家に預けられました。道臣少年11歳、上の妹・聰枝(としえ)7歳、下の妹・智恵子は5歳でした。

預けられた先での待遇はよくなかったといいます。妹たちはいつもおなかを空かしていましたし、近所の子供たちのいじめにもあっていました。道臣少年は、妹たちを必死に支えます。学校から帰ると、妹たちの預け先に立ち寄るのがほとんど日課になりました。それぞれに声をかけてやり、時には二人を連れ出して、村外れの畑でこっそり盗み食いをしたことさえありました。大根は泥を落とせばすぐに食べられたけれど、じゃがいもは洗ってもえぐくて固くて、とても食べられなかったといいます。

母は、その4年後に地元の教団の教会で亡くなりますが、自身の病が重くなってからは、二人の娘を教団本部の施設に預けていました。母の死後、宗道臣は、下の妹智恵子が衰弱して寝込んでいると聞いて、見舞いに駆けつけます。病床の智恵子は、「おまんじゅうが食べたい」と甘えたといいます。夜更けの町中を駆け回り、ようやく一軒の菓子屋をたたき起こして買い求めることはできましたが、智恵子にはもう兄の好意を口にするだけの力もなかったといいます。宗道臣15歳、智恵子8歳の夏の夜でした。

宗道臣は後年、「智恵子の口元にまんじゅうを押しつけて、一口でも食べさせようとしたのに、食べられずに涙を浮かべていたのを思い出すと、つらくて……」と、折に触れ涙したものです。上の聰枝も翌年後を追うように、12歳の短い生を閉じています。どちらも教団施設での孤独な死でした。母も幸薄い人でしたが、妹たちはもっと不憫でした。何も悪いことなどしていないのに、こんな目にあうのはおかしい。何もしてやれなかった自分が口惜しい。もっと力が欲しい。人の役に立とうとするなら力がなければ……。
これが、宗道臣の信念、「力愛不二」の芽生えでした。

※少林寺拳法の教えの一つに「力愛不二」があります。“力の伴わざる正義は無力なり、正義の伴わざる力は暴力なり”という言葉に通じますが、宗道臣の少年時代の経験が反映しています。

鈴木義孝

1930(昭和5)年、兵庫県神戸市に生まれる。大谷大学文学部卒業、姫路獨協大学大学院修士課程修了。16年間の中学・高校教員生活を経て、69年より 81年まで、金剛禅総本山少林寺、社団法人日本少林寺拳法連盟、日本少林寺武道専門学校の各事務局長を歴任。金剛禅総本山少林寺元代表。現在、一般社団法 人SHORINJI KEMPO UNITY顧問。194期・大法師・大範士・九段。

鈴木義孝