Vol.09 「互助」と「共助」が伴う仲間づくりを

2013/03/01

大阪市立桜宮高校の生徒の自殺に端を発し、部活動での体罰が問題となっています。

 この問題を考えるとき、「体罰」の是非ではなく、教育・指導・愛情のそれぞれの面から考えて、今回の教師による行為は明らかに暴力であるという前提が必要だと思います。

 納得ずくで自らが選び、自分を追い込む環境の中で目標を達成するというやり方はよくあります。しかし、逃げられない、逆らえないという環境下で精神的肉体的に追い詰めて何かをさせるというやり方は、恐怖心を利用したドメスティックバイオレス(DV)にほかなりません。何度も、また何年も繰り返しているうちに、その行為が当たり前になり、正当化し、どんどんエスカレートしていくものです。そして、当事者や、知っていても止めなかった周囲の関係者はこう言います。「今まで同じやり方をしてきて、何も起こらなかった」と。

 「いつ起こってもおかしくない」という危機意識は微塵(みじん)もなく、さも今回が特別なアクシデントでもあるかのような言い方です。組織の中に組み込まれると、いつしか目の前の自分が関わる人間関係を壊したくないために、おかしいと思っても言わないほうが無難と判断したり、下手なことを言うと自分のこともとやかく意見されるのが嫌だから言わない……と、自分のことだけを考えてしまいがちな昨今の社会です。

 少林寺拳法には、「力を伴わない愛(正義)は無力なり。愛(正義)を伴わない力は暴力なり」という創始者の教えがあります。
 前文は、どんなに大切に思い、わかってほしいと思っても、また助けたいと思っても、自分に力がなくては理解させることも助けることもできないという意味です。そしてもう一つは、どんなに力があっても、その人の立場に立って考えたり、本気で愛情を持って向き合わず、力に任せてねじ伏せるのは暴力だという意味です。

 もうお分かりいただけたと思いますが、創始者のいう「力」とは、決して腕力などの肉体的なことだけを指しているのではないのです。
 もう一つ、「半ばは自己の幸せを、半ばは他人(ひと)の幸せを」という創始者の教えがあります。まさに本気で他人のことを考え、役に立つためには、自分の可能性を信じ、一生懸命勉強し、知恵と知識を高め、愛情を持って人に向き合うことと、それを行動に移すための自信と勇気を養うことが必要だと、私たちは考えています。

 幼い子供に、危ないことやしてはいけないことを教えるために、ピシッと手を弾(はじ)くように叩(たた)いたりすることはあると思います。目的は、「驚いてやめる」からだと思うのです。これでもか、これでもかと、腫(は)れ上がるまで叩く必要性はどこにもありません。それとて、三つ子の魂といわれる3歳くらいまででしょう。それ以降は、教える側の日常のあり方と、納得させる理由が必ず必要です。納得感なく力でねじ伏せられると、そこには、行き場のない苦しみと憎しみしか生まれません。
 家庭内DV は、当事者だけではどうすることもできませんが、今回のような教育現場での問題でも同じことがいえると思います。自分のために見て見ぬ振りをするのではなく、日本の誇るべき文化であった「互助」と「共助」が今必要です。私たち少林寺拳法は、そんな仲間づくりをしています。