Vol.13 今、見直すべき「薫習」

2013/08/01

 私が子供のころ、自宅には父(少林寺拳法創始者・宗道臣)の好きだった、ジャズやアルゼンチンタンゴ、そしてポール・モーリアやレイモン・ルフェーブルなどの映画音楽が毎日流れていました。そんなある日、友達が数名遊びに来て、父の書斎にあったステレオを見るや、「レコードをかけて!」と言われ、何とも思わずジャズをかけたら、みんなが顔を見合わせて、「何~、これ? 変なの~」と冷やかに言われたことを、今でも鮮明に覚えています。なぜ覚えているかというと、それは自分にとって当たり前だと思っている環境が、他人にとってはそうではないことがあるということを、初めて実感したからです。
 なぜ、うちには友達の言うような、当時流行(はや)っていた日本の歌がないのだろうとは思ったものの、それが嫌な思い出でないのは、父が書斎に居るときにはジャズや映画音楽が流れ、そこで聞いた父の子供のころの話や戦争体験の話、また私自身が父から褒められたことや叱られたことなど、交わした言葉の一つ一つがいい思い出として残るとともに、今に生きているからです。
 私は、かなりの“ながら族”です。掃除をするときも、よほど急ぐとき以外、いつも懐かしい映画音楽などのCDをかけています。気持ちが落ち着き、楽しく掃除ができるからです。そして、いろいろ考え事をしたいときも、CDをかけます。それは、必ずといっていいほどジャズです。すると、どんどんイメージが広がり、客観性を持って考えが整理できるのです。
 今思えば、それは父の習慣に似たものであり、同時に、私にとっては父にさせてもらった社会勉強と、教わった人生哲学がさまざま甦(よみがえ)ってくる瞬間なのだと思います。
 「刷り込み教育」という言葉もありますが、否応(いやおう)なく無理やり刷り込むのではなく、乾いたスポンジに水が染み込んでいくように、いい環境の中での繰り返しによって自然に吸収していくことができれば、楽しく学ぶことができるのではないでしょうか。
 薫習(くんじゅう)という仏教用語があります。物に香りが染みつくように、人々の精神・身体の全ての行為が人間の心の最深部に影響を与えることです。まさにこの「薫習」を、今、見直すべきときだと思います。
 特に宗教心のない人が多いといわれる最近の日本では、恥という言葉は知っていても、感覚としての恥を知らず、だから怖いものなしで何でもあり、自己中心で、他人に迷惑をかけるという意味さえ分からないという人が増えているといわれます。万人に共通の“人として生きる”=“ひと行”については、「道徳」として教科書で教えることには限界があります。かつてはその大半を、家庭や地域社会が担っていたことなのですが、もはやそれは崩壊しているのですから。
 少林寺拳法は、そんな「薫習」環境を何より大切にしています。
 真摯に自分と向き合い、楽しく他人と向き合い、そしてプラス思考で社会に目を向ける。そこから自分の可能性を見つけ出してみませんか。