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vol.16 久保博 大導師大範士九段 63期生

2011/05/27

教典は私にとっての道しるべ
久保博 大導師大範士九段 63期生

1934年5月、香川県観音寺市生まれ。54年、観音寺道院入門。55年8月、再度上京。1年間、昼は出版会社に務め、夜は電気専門学校で学んだ後、日本アルファ電気株式会社に入社。64年、日本達磨電気産業株式会社(後の有限会社三章技研)を創業し、独立。2009年まで代表取締役社長を務める。63年11月、川崎小杉道院(現・横浜日吉道院/児玉千尋道院長)設立。70年7月、東京目黒道院を設立、道院長を務め現在に至る。本山委員を始め多くの役職を歴任し、2007年より名誉本山委員に就任

久保博 大導師大範士九段 63期生

私は上京した当初から、自分で事業を起こしたいという目的がありました。田舎で少林寺拳法二段をとっていましたが、まさかその時は自分が道院を出すなんて、夢にも思っていませんでした。それがいつの間にか指導者となっていた……私の人生において、これ以上の影響を受けたものはありません。金剛禅という一つの大きな縁に感謝しています。


少林寺拳法が無名時代の東京で

21歳で再度上京した時、まだ東京には少林寺拳法の道場がありませんでした。しばらくして開祖から、故・内山滋先生(大範士九段)が行くとのご連絡をいただき、56年4月、内山先生が転勤で上京されるとさっそく訪ねて行きました。そして翌57年、内山先生は東京道院を設立され、本格的に東京での布教活動が始まったのです。

最初は場所がなくて、渋谷の都バスの車庫、年配の拳士の家の座敷、と転々としていました。その頃はまだ会社勤めをしていて残業もあったのですが、練習できるのが嬉しくて、仕事を抜け出しては道院に通っていました。

内山先生が世田谷区のパーマネント屋を買い取って道場としてからは、そこに住み込んでいました。しかし、少林寺拳法は全くの無名でしたので、人を集めるのもたいへんで、雨が降ったら先生と年配の拳士と3人だけという時もありました。そのように内山先生でさえ、場所の確保や人集めに苦労されているのを知っていましたので、なおのこと、自分が道場を出すなんて考えてもいなかったのです。

それが3年くらいたったあるとき、年配の拳士から「久保さん、早く道場を出してあげないと、皆出せないよ」と言われました。ある拳士が内山先生に道場を出したいと相談したら、「ちょっと待て。久保君が出してからにしたらどうだ」と言われたのだそうです。このままでは後輩の邪魔になってしまいます。道場を出すか少林寺拳法をやめるか……追い込まれました。じゃあ、やってみるかと。

それから場所探しが始まり、当時、住んでいた東横線沿線の駅を片っ端からあたりましたね。昼間、女房が子供を連れて歩いて探し、見当をつけておいてくれたところを、夕方、会社が終わった後、交渉に行くんです。しかし、少林寺拳法は全く知られていないものですから、どこも断られました。それでもなんとか練習場所を確保して、人を集め、63年、川崎小杉道院(72年に横浜日吉道院に改名)を設立することができました。その時は、内山先生をお招きして道院開設記念演武会もやりましたよ。ポスターを貼ってPRしたのですが、あいにく雨が降ったこともあり、当日見学に来た客は5、6人でした。ですが無事に記念演武会を終え道院のスタートを切ることができました。

さらに、70年、会社のある目黒区に東京目黒道院を開設することができました。目黒道院3周年と横浜日吉道院10周年合同で記念演武大会を行った時は、目黒公会堂を超満員にすることができました。お招きした代議士も驚くほどで、記念行事が少林寺拳法の絶好のPRとなった時代でした。


金剛禅を意識し始めた時

川崎小杉道院を出した翌年、仕事も念願の独立開業を果たすことができました。29歳の時でした。

しかし、仕事と道院の両立は容易ではありませんでした。その当時は、輸出用製品をつくっており、船積みの期限があるため道場に出られない日が続いていたのです。真剣に悩みました。事情を分かっている年配の拳士が「先生、仕事で手が空くようになるまではそれほどかからないから、その間、われわれが道場の面倒をみています」と言ってくれ、助けられて来ました。しかし、それでももうどうにも無理と思う壁にぶちあたり、今度ばかりは道院をやめるしかないと思いつめたことがあります。毎年恒例の道院長講習もこれが最後、としょんぼりと本山に帰ったその時、いつになく開祖の話が耳に入ってきたのです。

「やってみないと分からないじゃないか。人間はやる前からあまり先を考え過ぎて、あきらめてしまう。これが大きな行き詰まりになるんだ。可能性が少しでもあるのなら、まずやってみることから始めないといけない」

ああ、自分でできないと思い込んでいただけだ。門下生たちは協力を申し出てくれているじゃないか。もう1回やってみよう、と勇気が湧いてきました。

するとあれほど行き詰まっていたはずなのに、2ヶ月もすると解決できたのです。この時の経験は大きな自信になりました。その後も仕事と道場の両立で行き詰まったことが何度かありましたが、意外と楽に対応することができました。あのときできたのだから、なんとかなると。

このように、私が金剛禅を意識し始めたのは、独立して仕事と道院の両立で悩みだしてからです。金剛禅では、人間は可能性を持った種子であるとうたっています。自分の可能性を信じてやっていけばなんとかなるのです。


aun_tunagu_vol1_2絆を深める

 女房には苦労をかけてきたと思います。練習があれば、帰りが翌日になるのはざらでした。練習後、道場の近くに住む独身拳士の家に皆で茶菓子を持ってあがりこみ、夜1時くらいまで飲んで話をしていましたかから。でも、そうして互いをわかり合い、人とのつながりを深めていったんです。

門下生には大学教授や大手の社長、映画監督もいれば俳優もいて、本当にさまざまな方がいて、逆に私の方がいろいろと勉強させてもらいました。

aun_tunagu_vol1_3コミュニケーションを大切にしていたのは、開祖もそうだったと思います。

開祖が東京に来られた際にはご一緒させていただくことがしばしばあり、いつもたくさんお話を聞くことができました。開祖を宿舎にお送りした時も、「まあそこに座れ」と引き止められ、おしゃべりに夢中になりすぎて、終電を逃したこともありました。

今で言う道院長研修の個人面接にあたりますが、川崎小杉道院設立のご挨拶に開祖のご自宅にお伺いした時は、お昼に奥様の手料理をごちそうになりました。朝10時からずーっと3時くらいまで、あっという間で、全然時間を感じなかったですね。

本山で行われる指導者講習会には、毎年、東京道院の幹部揃って参加していました。夏の3日間、今のように冷暖房がない時代でしたから、よく開祖は上半身裸になっていました。もうざっくばらんでね。われわれも師範師範と慕っていました。

講習会は、初日と2日目は、午前中が法話、午後から実技、夜は整法、すべて開祖が直々に指導してくださいました。まだ心臓が悪くなる前です。3日目の午前中は実技だったり法話だったり年によって違いましたが、昼までには終わり、その後食事会がありました。旧道場にずらーっとテーブルに料理が並んで、300人くらいが皆で一杯やるんです。故・金子正則香川県知事も必ず来られて挨拶され、祭壇の方に座ってらっしゃいました。

この食事会では、いつのまにか開祖がすっと消えていて、そこから拳士たちのどんちゃん騒ぎが始まったものです。開祖の気遣いなのでしょうね。全国から人が来ていますし、芸達者な人ばかりでしたから、各地区の芸が披露され、それは盛り上がりました。今のような錬成道場が完成する前、まだ開祖が雲の上のような存在になる前の、懐かしい思い出です。


負けないという凄さ

私たちが修練しているのは、護身の技術です。ですから、実際に役立つような技を身に付けなければいけません。開祖は、自分の身を守れればよい、せめて勝たなくてもいいから負けないこと、と言っています。負けないというのは、言葉にすると何てことないように思えますが、これは凄いことなのです。

この真の意味を深く考えず、単に勝ち負けのスポーツ的な考えに走ってしまうと、見た目だけの使えない技になってしまう。ですから、当身の五要素一つとってもそうですが、拳士の皆さんにはもっと自覚して追究してもらいたいと思っています。少林寺拳法の技の本当のすばらしさを知って欲しい。

指導者講習会では、舞台の上で開祖が指導するのを、一生懸命メモ書きしました。そのメモを基に、また道場に帰ってあれこれと技術研究するわけです。開祖の技術は体験の中で培われてきたものですから、小さくて軽やかな動きです。スッととらえて投げる。実戦的でした。

とにかくいろいろと研究しました。何か持って殴ってきた相手に対し、私たちも何か持って受ける練習をしてもいいのでは、という発想で独自に錫杖と如意を研究したりもしました。和木新三さん(大導師正範士七段)と二人で、実際に錫杖と如意を使いながら、受ける角度や腕の曲げ伸ばしを考え、工夫しました。

和木さんと組んで、開祖の前で演武を披露したことは二回あります。

aun_tunagu_vol1_4それがこの写真です。少しでも若い後輩と差をつけようと、錫杖と如意を持って演武をしたんです。この頃は法衣もすべて手作りで、如意といっても薪です(笑)。開祖はガチガチと捕物帳のような錫杖の使い方を嫌われていたのを聞いていましたので、来たものを受けて1、2発で決めるという組み方をしていました。しかし、直接教わったわけではありませんから、開祖も「あれ、こんなの教えたかな」と思ったのではないでしょうか。この時(1回目)、開祖はマイクを持って、これは余技であると言われました。少林寺拳法は素手が主流であることを強調されたのかもしれません。2回目が開祖の前でした最後の演武になりました。


われわれは求道者、意識し実践していくことで変わっていく

不思議と必要な場面になると開祖の言葉がふっと思い出されます。

金剛禅の教えはイコール開祖の教えです。特に信念を貫くという、これだけは常に念頭に置いて、今まで来ました。

仕事は引退しましたが、商品開発や特許をとってきたこれまでの経験を生かし、また道場という場を活用して、何か新しいことをしようと考えています。さて、どう持って行くか思案中、楽しみです。

本に書いてあることを学問的に知っているので終わらせるのではなく、それを生活の中で生かしていくことが大事です。

私は教典に導かれてここに来ました。教典には金剛禅の教えが凝縮されすべて入っています。教典に書かれていることは、一見当たり前で簡単に思えますが、実行するとなると難しい。ですから、私たちは毎回鎮魂行で自分自身に言い聞かせ、日常生活の中で一つでも多く、実践し身につけようとしているのです。

最初は技の魅力できても、金剛禅の教えを自分のものにしていくに従って、求道者に変わっていく。その道しるべになるのが、私は教典だと思っています。

まず自分は求道者である意識を持つことです。すると、礼儀作法から始まって、ふさわしい態度というのが自然と出て、人生が変わっていきます。