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vol.17 藤田昌三 大導師大範士八段 66期生

2011/07/27

初心を忘れず続けてほしい 続けることに人を育てる基礎がある
藤田昌三 大導師大範士八段 66期生

1937年10月、香川県三豊郡大野原町(現・観音寺市)出身。54年、豊浜道院入門。56年、大阪の石濱内外硝子(株)に入社。2年後、名古屋営業所所長に任命され、以後、46年間勤務する。65年12月、一宮道院設立。68年3月、熱田道院を設立、道院長を務め現在に至る。本山委員を始め多くの役職を歴任し、2007年より名誉本山委員に就任。

藤田昌三 大導師大範士八段 66期生

私は人に恵まれました。皆さんのお陰でここまで来られたと思っています。今では仕事でも、どこへ行っても、少林寺拳法の先生というのが出てきます。とにかく一つのことを続けることが大切だと思います。途中でやめたら何も残りません。続けているから資格も上がり、六段にも七段にもなれ、指導者にもなれる。続けることに人を育てる基礎があるのです。香川県から愛知県に出てきた私が、たんぽぽの種のように、新しい芽を育て、花を咲かせ、また新しい種が飛んでいく……。この道に間違いはなかったと確信しています。


とにかくおもしろかった少林寺拳法

少林寺拳法に出会っていなかったら、ひょっとするとマラソンでオリンピックに出ていたかもしれません。中学1年生の時から、駅伝の選手で県大会に出ていました。7人の選手の中で1年生は私だけ、あとの6人は3年生でした。3年生の時には陸上で三つの高校から来てくれと言われたほどです。しかし、家柄は古いのですがお金がない。昔は、家族一人ひとりご飯を食べるお膳があって、そこの引き出しに財布を入れたり小遣いを入れたりしていました。その父のお膳箱の中の財布が軽い……成績は学年トップで級長をしていましたが、とても大学には行けそうもないと思いました。そこで、就職に有利な観音寺商業高校に行きました。高校でも最初から級長をさせられました。

その高校の同級生に変なバッジをつけているものがいたんです。私は腕に自信があったのですが、パッとねじられてやられてしまった。片胸落。あ、これはおもしろいことやるなと思いました。聞くと、「少林寺拳法や。今度、演武会があるぞ」と言うので、さっそく公開演武会を見に行き、入門しました。

週3回の道院通い。科目表を見たら分かるように、最低週3回練習する体系になっています。学校には2食の弁当を持っていきました。5時頃道場に行って、帰るのは夜11、12時。雪が降ると自転車を山裾において、家につくのは夜中の2時ということもありましたが、休まず通いました。

また、高校の少林寺拳法部を最初につくろうと思い、10人くらいを連れて、よく琴弾公園の「寛永通宝」をかたどった砂山で練習しました。今はそんなことしたら怒られますよ(笑)。卒業写真には、観音寺商業少林寺拳法同好会で載っています。残念ながら同好会からクラブにはならなくて……。私の卒業後は無くなったけれど。

とにかく少林寺拳法がおもしろかったんです。昔は6カ月か8カ月くらいで昇段試験を受けましたが、そのくらいたくさん練習をしました。

初段の試験の時、初めて開祖に技を掛けられました。ちょっと持てと言われて、パッと握ったら、知らん間にふわっと投げ飛ばされて……。その手が柔らかい。私なんか骨ばっかりですが、開祖の手は大きくて柔軟で、いくら突いても芯に届かないような感じでした。


横道にそれないよう、充電のため本山に帰る

卒業後は、大阪のガラス会社に就職し、4年間くらいは少林寺拳法から離れていました。本山と連絡をとっていれば違ったのでしょうが、少林寺拳法の道場を知らなかったので、柔道の道場に通い、大阪大会に出ていたこともあります。その4年間くらいは遊びまわっていました(笑)。営業で給料は歩合制、大学卒で月給1〜2万円の当時、21歳かそこらで10万円くらいもらっていました。ゴルフやったり、麻雀やったり、営業ですからお付き合いも多かったんです。

そんなある日、中日新聞に少林寺拳法の記事が掲載されていたのを見ました。名古屋に転勤して2年ぐらいたったころのことです。記事に出ていたのは同門の高橋法昇さん、さっそく、買ったばかりの愛車ブルーバードを飛ばして訪ねていき、復帰しました。

1962年、開祖がご家族(現・第二世師家)と、鈴鹿サーキットのオープンに招待されて来られた時、ブルーバードでご案内しました。開祖は怒ると厳しいけれど、いつもはものすごく優しいんです。1日ご一緒させていただいたのはいい思い出です。

翌年からは、武専に入学し、東海武専ができるまで毎月、四国に通いました。開祖は、本山の先生が指導しているのを横で見ていて、変なことすると、「ばかもん、ちょっとこっちへ来い」と怒っていました。私は開祖からあまり怒られたことはありません。要領がよい方でしたし、怒られないようにしていましたので(笑)。

われわれ拳士が帰山するのは、充電のためだと思っています。地方で離れていると、横道にそれてしまいがちなんです。いつも開祖のそばにいるわけではありませんから、好き勝手な方向に走ってしまう。本山で開祖の話を聞いて、充電して帰る感じでした。

土曜日の昼に名古屋を出発して、翌日の朝2、3時頃多度津の駅に到着。本部道場の2階にはすでに近辺の人が先に来て寝ていますので、そっと音を出さないよう上がり、武専が始まる朝7時まで私も仮眠をとりました。武専が終わり4、5時頃家路につき、名古屋駅に到着するのは月曜日の朝6時頃でした。もちろんそのまま仕事に入ります。

それでも本山へ行くのは本当に楽しみでしたよ。武専の帰り、高松から大阪への連絡船で、京阪神の拳士は3、40人いるのですが、名古屋勢は3、4人くらいでした。その時、もっと名古屋に拳士を増やそうと心に決めましたね。


鶏口牛後、指導者になれ

「鶏でも頭になれ、自分で考え、指揮をし、指導していく、それが一番大事だ」と開祖は言っていました。(牛のシリのように)後ろからついていくような人がいくらたくさん集まっても社会を変えられない。人を引っ張っていける人材を育てないといけないのです。私の道院からは15人以上の道院長が出ましたが、そこからまた道院長がたくさん出ていることに、指導者としてささやかな誇りを感じます。香川県から愛知県に出てきた私が、たんぽぽの種子のように、新しい芽を育て、花を咲かせ、また新しい種が飛んでいく……。自然に広がっていった、すべて皆さんがしてくれたのです。

私は愛知県少林寺拳法連盟の理事長を務めたことがあります。それまで絶対、理事長はやらないと言い続け、副理事長を30年もやっていたのですが、「あんたしかおらんのや」と押されて6年務めました。私は6年ぐらいで交代するのがちょうどいいと思っています。2年では早すぎるし、4年ではまだ物足りない、6年するとその人の色が出てくるのでちょうどいいと思います。ただ、6年以上いると疎まれるので引き際が肝心です。国際社会を見ても、人間はあまり長いこと役職についていると膿が出てきます。淀まず、先を見据えて人を引っぱって行ける指導者がどんどん社会に出て、活躍して欲しいと思います。


初生の赤子、最初が肝心

初心忘るべからず。いつも話すことですが、入門して帯に色がつくまでは、手取り足取り丁寧に教えて、最初に少林寺拳法の道を知らしめることが大切だと思います。初生の赤子というように、最初は色がついていないわけです。だからその人がある程度歩けるようになるまでは、私が教え手を引くようにしています。帯に色がついてきたら幹部に教えてもらうようにしていますが、いつまでも最初の気持ちを忘れずに続けてもらうためにも、初心者は私が教えます。開祖もそうだったように。これは今でも変わりません。

とにかく続けて欲しい。一つのことを継続して欲しいと思っています。続けていたら五段でも七段でも自然になっていきます。そこに人を育てる基礎があるのです。少林寺拳法を続けているから人にも教えられるようになり、教えるということは人を育てていくことにつながってきます。続けることによって資格があがり、指導者としての中身もついてくるわけです。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言うように、稲穂は、最初は頭が突っ立っていますが、実ってくれば自然と頭がさがります。同じように、資格があがり、段位が高くなっていけば自然に相応しい風格が出て来るはずです。そうして今度は人がついてくるようになり、教えることで自分自身も育って行くのです。

学校の勉強で忙しくなるから辞めますという人がいたら、細々とで構わないので続けるように言っています。途中で辞めたら何も残りません。昔、少林寺拳法をやっていましたでは残っていないのです。二段三段でくじけそうになっても、続けていたらきっと、あのころ辞めずに続けていてよかったなとなりますから。


開祖も努力して成長した

私は結婚する時、家内に「少林寺拳法とゴルフ、麻雀には文句を言うな」という条件をつけています。家内は少林寺拳法はやっていませんが、いろいろと協力してくれています。おかげで今ではどこへ行っても「少林寺拳法の先生」というのが先に出てくるようにまでなりました。

私はもともと営業でしたから、人当たりはいいと思います(笑)。営業は物を売りに行くのではない、藤田個人をいかに信頼してもらえるかが重要です。競争が激しいですからなかなか売れませんもの。やはり自分を知ってもらうことから始めなくてはなりません。そんな時に私には少林寺拳法がありました。

会社には46年間、勤めました。2代目の社長は私の仲人で、少林寺拳法にも理解が深くて、私が道院を開いた道場開きをはじめ、10、20、30年と周年行事には全部来てくれていました。やはり人間関係、人とのつながりが大切です。少林寺拳法を続けていてたくさんの人に恵まれました。

最初の頃こそ、金剛禅の独特の雰囲気に、変わった集団だな、と思いましたが、自分がどっぷりと金剛禅につかり、人を育てて初めて善し悪しが分かります。今はこの道に間違いはなかったと確信しています

。 金剛禅は一般的な宗教とは違います。自分の生きる道として考え、求めていかなくてはいけませんが、金剛禅以外の宗教や団体を認めないというものではありません。金剛禅は調和の思想です。反対にどの団体でも受け入れてもらえるようなものでなければと思います。

aun_tunagu_vol2_2開祖は、敗戦で荒廃した日本を変えるためにこの道を開きました。開祖自身が言っていますが、最初から今の形態ができあがっていたわけではありません。本山の建物も、一つだけだったのが、たくさんの人が協力して、開祖自身も鉢巻きして、自分達で作っていったのです。技もそうです。昔は科目表といっても1枚の紙でした。教範も初版本は薄いですよね。そこに血肉をつけて今の分厚い本になった。金剛禅としての内容を充実させるために、開祖もいろいろな書物を勉強して、今の形を作っていったのです。他の先生方が書き足していった内容をも、開祖は全部吸収されていきました。そこに人間的な大きさを感じます。開祖自身も成長していったのです。

私も一生懸命生きて、まだまだ続けていきたいと思っています。

※写真:東海地区を襲った記録的大雨による大洪水で、ほとんどすべての写真を失ってしまった。これは手元に残る、開祖との貴重な1枚。