• 志をつなぐ >
  • vol.18 大屋昭夫 大導師大範士八段 98期生

vol.18 大屋昭夫 大導師大範士八段 98期生

2011/09/27

自他共楽の教え通り、思いやりと感謝で広がる人間関係
大屋昭夫 大導師大範士八段 98期生

1927年10月、台湾生まれ。44年、海軍に入隊、山口県防府市で予科練に入る。46年、上京。53年、中央大学法学部を卒業後、米軍兵器廠に入所する。57年、広告業界に転身、広告代理店勤務を経て、63年、株式会社宏栄社を創業し独立。代表取締役として現在に至る。57年、東京道院に入門。64年、世田谷道院を設立、道院長を務め現在に至る。日本体育大学少林寺拳法部監督。多くの役職を歴任し、2007年より名誉本山委員に就任。2014年9月16日逝去、満86歳。

大屋昭夫 大導師大範士八段 98期生

「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」という思いやりと感謝、この二つがきちんとできたら、それでよいと思います。人生にはいろいろなことがありますが、本当におかげさまで成り立っているのだと感謝するばかりです。自分が何かやってあげているなんてとんでもない話。よく考えてみると、いろんな人の支えで生きているわけですから。自分だけではなく半分は相手のことを考えようという教えの実践で、いい人生が開けたと思っています。


aun_tunagu_vol03_02東京道院一期生

 昔は柔道をやっていました。中学時代に約5年、講道館に約3年、通っていましたが、万年初段でそれ以上なかなか上がれませんでした。そんなとき、台湾の旧制中学で4年後輩の安西稔君が私を訪ねてきてくれたのです。香川大学を卒業して自衛隊に入り上京してきた彼は、学生時代に本部道院で少林寺拳法を修行していました。

「ちょっと手を握ってくれますか」と言われて握ったら、コテッと倒されて。旧制中学で4年違うというのは、大人と子供くらいの違いがありましたし、そこで私は彼に柔道を教えたこともありましたから、再会した時はまだ私の方が強いと思っていました。そうしたらコロコロやられた。それが少林寺拳法との出会いです。

「ぜひ習いたい」と言ったら、「ちょうど内山先生が東京道院を開かれるので紹介します」と彼に連れられて、仲間5、6人と一緒に入門しました。安西君に会ったのは4月で、故・内山滋先生(大範士九段)が東京道院をひらかれたのが5月ですから、私は生え抜きの東京道院1期生です。

私が入門して4年後に、早稲田大学ウェートリフティング部出身の松田欣一郎君(元・山ノ手道院道院長)が安西君から少林寺拳法の話を聞き入門してきました。彼も私の旧制中学の4年後輩にあたり、安西君と同級生です。松田君は中学でも、少林寺拳法でも4年後輩です。

aun_tunagu_vol03_03残念ながら、私に少林寺拳法との縁をくれた安西君は若くして亡くなりました。自衛隊の幹部候補生で、非常に優秀な人物でした。少林寺拳法は大学時代に本部道院で修行しただけで、その後、彼自身は続けてはいませんでした。その代わり、私や松田君を少林寺拳法に残していったのです。


師の後ろ姿を見て育つ

 一緒に入門した仲間のほとんどは初段で終わってしまいましたが、私は少林寺拳法が大好きなのはもちろん、内山先生という尊敬するすばらしい師に出会えたから、今日まで続いているのだと思います。

関東に少林寺拳法普及の礎を築いた内山先生も、最初は場所探しに苦労されました。香川県学生寮、門下生の家の座敷と、練習場所を転々としたものです。写真は粧屋さんという拳士の家の座敷で練習している様子です。

内山先生にとっての自前道場は、世田谷区のパーマネント屋さんを買い取ったのが最初です。久保博先生(目黒道院道院長)が寝泊まりしていた道場。その後しばらくして新宿体育館を借りられるようになり、カッパ・ブックス『秘伝少林寺拳法』(光文社)が出版されると、一気に人数が増えました。あの頃は入門者が何百人もいて練習場所に全員が入りきらなかったくらいです。4班編成を組み、久保先生と松田君と和木さんと私が班長を任されました。とにかく大きな道院になりました。

aun_tunagu_vol03_04私が道院を開設したのは、内山先生に「そろそろ道院をもちなさい」と勧められたからです。その頃は関東連合会と言っても、内山先生の東京道院と川崎に一つあるだけでした。「道院を出そうよ」という気運が高まっていた時でした。久保先生は私より1年先に道院を開設されています。私が世田谷道院を始めた時は、同時に3つ道院が開設されました。今はありませんが、厚生省に務めていた拳士が開設し、官庁街の人が入門していた霞ヶ関道院、それから三多摩道院、秋吉好美先生(多摩豊田道院道院長)の渋谷道院もこの時期です。

東京に少林寺拳法が普及していくのを最初から見てきましたから、たいていのことは知っていますよ。内山先生の功績はとても大きい。香川県から家族を連れ上京してこられた内山先生は、仕事での昇進は最初から考えていなかったと思います。そもそも関東で少林寺拳法を広めるために、開祖が故・金子正則香川県知事に県庁の職員だった内山先生の転勤を頼んだからです。内山先生は組織のために東奔西走されていました。

aun_tunagu_vol03_05行事など何かにつけ、私たちにもよく招集がかかったものです。皆、よく働いたと思います。私も含め、それぞれに仕事を持っているのに、それこそ仕事を放り出して(笑)。これは一重に内山先生の人徳だと思います。私たちは、内山先生が動くのだから、一緒にお手伝いしたいという気持ちでした。

内山先生はいつもニコニコされていて、怒ったのを見たことがありません。私は組織のために奔走する内山先生の後ろ姿を見て育ちました。開祖のことも、いつも内山先生の背中越しに見ていました。内山先生は私の師匠です。その内山先生を越えることなどできるはずがないのです。

今、東京都少林寺拳法連盟は道院数も200近く、武専コースだって500人在籍している大きな組織ですが結束力があるいい組織だと思っています。皆さん、師匠を立て、皆と協調しながら進んでいく、という私の後ろ姿を見ているからではないでしょうか。現在の幹部は、下働きから地道に動いてきてくれた人たちです。


内助の功

私の仕事は、広告代理店でも雑誌広告を扱っていて、比較的、時間の融通が利き動きやすかったと思います。毎日発刊する新聞ではなく、月刊誌を取り扱っていました。少林寺拳法がずっと続けられるようにと仕事を考えたというのもあります。

aun_tunagu_vol03_07初期の頃は、指導者がまだ少なく、私も毎日どこかで少林寺拳法をしていました。日本体育大学、駒沢大学、北里大学など、大学少林寺拳法部の監督も複数務めました。

また、東京だけでなく、茨城県の土浦や新潟県にも道院へ指導に行っていました。新潟県は、日本体育大学を卒業後教員になり、新潟に赴任していった夏川勉君(新潟不二道院道院長)から、「先生、新潟で少林寺拳法を広めてください」というのが始まりでした。当時は新潟までの新幹線がないから、夜行列車で行って朝ついて、昼は練習して、また夜行で帰ってくるという日が週に1回はありました。土浦へは、家内が運転免許を取ってからは車で行くようになりました。こちらも週に1回、娘と息子が学校から帰ってきたらすぐ車に乗せて、家内の運転で土浦の道院へ。家族の中で家内だけ少林寺拳法をやっていないのですが、毎回送り迎えをしてくれました。私は免許を取っていません。お酒を飲むので、危ないから取らない(笑)。

本当に内助の功に支えられました。仕事を辞めて36歳で独立する時も、普通だったら反対されそうなところ、「どうぞやってください」と二つ返事で応援してくれました。

家内と結婚したのは、私が入門して2年後ですが、少林寺拳法のことを本当によく理解してくれています。門下生を家に連れて帰って来ても、少しも嫌な顔をせずにもてなしてくれました。だから、大勢の人が家に来てくれました。

亡くなられた梶原道全先生や澤田俊彦先生、近藤道文先生、森道基先生も私の家に泊まったことがあります。東京武専に出張教員で来られて、ホテルとか旅館を用意するのですが、私の家がいいって(笑)。

いろんなことがありましたが、本当におかげさまで今があります。いろんな人の支えで生きているわけですから、感謝するばかりです。自分だけではなく、必ず半分は相手の幸せを考えようという、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」の言葉通り、思いやりと感謝で人間関係が広がったと思っています。

独立し、安定した経営ができているのも、やはり人とのつながりです。半分は相手の立場に立って考え行動する姿勢を仕事でも貫いてきました。もちろん、順風満帆ではありませんでしたし、今だって仕事の方がたいへんで、どこかで晴耕雨読の生活をのんびり送りたいという気持ちもありますが、まだそうはいかないようです。


開祖の威厳

私は1945年4月に特攻隊に編入され、海軍の潜水学校で訓練を受ける予定でした。座学と勤労奉仕で終わりましたが、あと半年、戦争が長引いていれば出撃していたと思います。私が乗る予定だったのは「蛟竜」という5人乗りの小型潜水艦でした。両側に魚雷を1本ずつ積んで敵艦に近づき、至近距離から打って帰ってくるという作戦ですが、実際は、そんな生温いことではだめだと、魚雷と一緒に敵艦に突撃したことでしょう。

当時は軍国主義で天皇陛下万歳、お国のためになどといいましたが、個人はそんなことありません。まず思うのが、両親、兄弟、自分自身のことです。無謀な戦争をしたことを反省しなくてはなりませんが、だからといって日本人の自信や誇りを失ってはいけないと思います。不平不満だけ言って、内向きになるのではなく、前向きで、明るく力強い国づくり、人づくりが大切です。そのために開祖は金剛禅を開基したのではないでしょうか。

aun_tunagu_vol03_06開祖と直接お話したのは、68年に、開祖が心臓の病気で東京の病院に入院された時です。家内と二人で何回かお見舞いに行きました。写真はそのお見舞いに対する開祖からのお礼状です。どちらかというと開祖を怖いと感じていましたが、手紙をいただいて、とても優しい方なのだと思いました。

私が開祖を凄いと思ったことは、開祖から頭を下げたことを見たことがないことです。どこへ行っても、向こうから頭を下げてくる。もちろん開祖が威張っているわけではありません。不思議と開祖の威厳を感じるのでしょうね。

講習会での開祖法話は、皆をやる気にさせるものでした。開祖の話はそれは迫力がありました。人の話の受け売りではなく、全部が自分の体験に基づくものだからでしょうね。皆、充電されたという感じで、各地へ戻っていったものです。ただ、それがどのくらい続くかというと……だからせめて年に1回は充電が必要と、帰山したのです。

東京は関西に比べるとレベルが低いというのが悔しくて、関東連合会でよく技術研修会をやったこともありました。1泊2日で、本部の先生をお招きして直接に技を教わりました。その合宿のおかげで皆、ずいぶんと自分の技に自信を持てるようになりましたね。

多くの人がそうだと思いますが、私も最初は強くなりたいと、少林寺拳法の技を覚えたくて入門しました。ところが、自然と感化され、教えが入っていたのです。今も変わらずに私が一番大切にしている開祖の教えは、自己確立と自他共楽です。それをより多くの人に伝えて行きたいと思っています。

布教でも、一人が一人を連れて来たらすぐに倍になると思います。自分だけがやっていればいいではなくて、こんなにいいものだからやろうよと。そのときに、この人が言うのだから間違いない、と思ってもらえるよう、日ごろから信頼関係を築いていることが大切だと思います。

手を握ったら何も入ってきませんね。まず掌を開いて、笑顔で自分から与えること。そのことによって相手もお返ししてくれるのではないのでしょうか。