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vol.19 今井明雄 大導師大範士八段 63期生

2011/11/27

願望を持ち続けて努力したら、それは必ず成就する
今井明雄 大導師大範士八段 63期生

1936(昭和11)年12月、香川県坂出市生まれ。54年6月、坂出道院入門、後に本部道院に転籍。同年、県立坂出工業高校を中退し、坂出市の石原経木製造所に入社する。57年、日本少林寺武芸専門学校(現・専門学校禅林学園)を第一期生として卒業後、三菱電機神戸製作所に入社。60年、社内で少林寺拳法のクラブを発足する。63年、より広範囲で金剛禅運動を展開するため退職し、明石市で道場探しを始める。現在は損害保険代理店を経営。64年、明石道院設立、道院長を務め現在に至る。明石市より文化功労賞等、多数表彰されている。2007年より名誉本山委員に就任。

今井明雄 大導師大範士八段 63期生

なぜ金剛禅運動を続けているかというと、人は皆、無限の可能性を持っている、この言葉を実感しているからです。家柄とか学歴とか、多少スタートが違っても、皆同じ人間です。それぞれにすばらしい可能性を持っている。努力したら絶対、花も咲くし、実もなる。そう信じているから死ぬまでが修行なのです。可能性を信じているから、頑張れる。だから今も続けているのです。


人十度、我百度

最初はただ単に強くなりたいと考えていました。中学生の時、先輩たちに取り囲まれて袋だたきにされたことがあったのです。先輩グループの中に同じ村の人がいて、あいつらええかっこしてるけどたいしたことないやんか、と言ったことから呼び出しをくらって……1対多数です。あの時のことは今でもはっきり覚えています。そのとき、やり返さないかん、強くならないかんと思いました。柔道の道場にも見学に行きましたが、たまたま少林寺拳法を習っていた友人の紹介で入門したのが始まりです。

強さへの憧れが始まりでしたが、入門当初から技術だけではなく教えの部分にも深く共鳴しました。宗教といっても開祖が言っていたのは、「祈祷したり、お守り持ったりしたからって、そんなことで幸せになるものじゃない。要は心の持ち方だ」ということ、ほんまその通りやと思いました。

初めは坂出道院に入門しましたが、開祖から直接指導を受けたいという気持ちもあって3ヶ月後に本部道院へ転籍しました。坂出市の自宅から本部まで自転車で約1時間の道のりを、後ろの荷台に道衣をくくりつけて通いました。

その頃は常に開祖が道場にいるわけではありませんでしたが、たまたま私が鎮魂行の主座をしている時に来られて、「お前の主座は棒読みや」と怒られた記憶があります。それから、開祖の白蓮拳は未だ鮮明に覚えています。「燕返はこうや」と、腕刀でバーンと何メートルも飛ばされました。衝撃的でした。

最初に初段を受ける時、試験官にものすごく怒られて1ヶ月受験を延ばされました。今で言うと再試なのでしょうね。だけど、開祖の「人十度、我百度」の教えを胸にひたすら努力しましたね。同じ人間なのだから練習すれば誰でもできるようになる、下手でも他人が10回のところ自分は100回練習すればいいという気持ちでした。その後、二段受験の時も、旧道場の2階で特訓しました。とにかく努力し続けました。本部では初段、二段を取得し、武専も第一期生として卒業しています。


ええと思うたらオルグになれ

私は高校を中退しています。家庭の事情もありましたが、身体が弱かったのも理由です。胃が悪くてそんなに食べられない。急に気分が悪くなってうずくまってしまうこともありました。だから昔はものすごく細かった。でも、開祖の「死ぬ時まで生きている」という教えがあったので、自然に治ると信じていました。実際に今があります。

また、その頃は、段を取っても自信がないのならいっぺん喧嘩してこい、と先輩から言われた時代。私は18、9歳でしたので、素直に誰か喧嘩を売ってくれないかと坂出の町をうろうろしたこともあります。しかし、その気持ちが顔に表れているのでしょうね、誰も喧嘩を売ってこないし、不思議と喧嘩にも遭遇しませんでした(笑)。やはり人間は気持ちで変わるのかなと思いました。

aun_tunagu_vol04_021957年、三菱電機に就職して神戸に来ました。その時、開祖に「神戸に道場はありませんか」と手紙をだしたら、「森(故・森道基大範士八段)という男がいるから訪ねていきなさい」と返事をいただきました。それで訪ねて行ったのですが、森先生は沖仲士という船の荷揚げに携わる仕事をしていて修練場所も何も探せないという状態でした。そこで、三菱電機の仲間に声を掛けて道場として貸してくれる場所を見つけ、森先生に「道場を出してもらえませんか」とお願いしたのが神戸道院の始まりです。自分からお願いしたのですから、神戸道院がある程度軌道に乗るまでお手伝いしました。これはその頃の写真です。第一回兵庫県少林寺拳法大会で鎮魂行の主座を務めました。

神戸道院は、新聞の夕刊に出たことがきっかけで入門者が一気に増えました。軌道に乗ったのを見届けてから神戸道院をやめ、三菱電機の社内にクラブを出しました。開祖の所へクラブを出す報告に行った時は「そうか、遅かったな」と言われました。遅くなった理由は言っていません。

三菱電機という大企業に就職して、開祖に言われたのが「良いと思ったらオルグになれ」ということでした。オルグとは学生運動全盛期に使われた言葉で、青年隊、組合などの運動集団への勧誘活動を行う人のことです。「人間は食べるだけだったら犬でも猫でも食べられる。けれども、人間らしい生き方をするのだったら、半分は他人の幸せのために行動することが大切。真に平和で豊かな社会をつくるためにまず仲間を増やしなさい」と言われたのです。

私はまだ就職したばかりの現場の一工員で、会社には高卒大卒の先輩がたくさんいました。それでも「少林寺拳法で人間教育をしていきたい」と、上司や人事課長などを口説いて回りました。その時に協力者になってくれた当時主務の係長は、その後どんどん昇進して、三菱電機の副所長になり、顧問にまでなりました。今も変わらずお付き合いさせていただいています。

もともと私はどちらかというと引っ込み思案で、人を説得して回るなんて考えられない性格でした。しかし、開祖の「やらないうちに考えてもしょうがない。やってみてダメだったらまた方法を考えたらいい」という言葉に背中を押されました。たくさんの開祖の教えが私を成長させてくれたと思っています。


皆の拠り所となる道院づくり

クラブをつくって3年後、もっと広い範囲で金剛禅運動を展開したいと思い会社を辞め、誰も知っている人がいない明石市で道院を出すことにしました。

まずJR西明石の駅を降りて、目の前の自転車屋さんに飛び込んで、近くに幼稚園があることを教えてもらい、今度はその幼稚園に飛び込み訪問して……西明石愛児園の三木正太郎理事長に少林寺拳法を力説しました。三木理事長の紹介で西明石公民館を借りることができ、明石道院がスタートしたのです。三木理事長はその後も良き協力者として、道院を支えてくれています。

道院設立当初は、入門者は一人だけでした。翌月になっても7人で、20人ぐらいになるのには5、6年かかりました。そのうちに高校の少林寺拳法部、それから神戸学院大学少林寺拳法部への指導も依頼されるようになりました。当時、開祖の指示は「週2回は直接指導に行くように」とのことなので、少林寺拳法の時間をつくるために、アルバイトの掛け持ちで生計を立てることもありました。仕事は転々としましたが、人間食べるぐらいだったらなんとかなるものです。

道院設立から6年目、借金をして道場建設用の土地を購入しました。けれども、建物をたてるお金まではありません。いろいろと考えた末、最終的に自分達で建てることにしました。拳士たちの応援も得て、基礎工事から全部自分達で行ったのです。大きな石をハンマーで割ったり、壁に断熱材の発泡スチロールを詰めたり……、祭壇のペンキ塗りではシンナー吸って酔いましたよ。とにかく自力でできる作業はすべてこなし、1階は25畳の道場、2階には応接室や更衣室、小道場がある鉄骨二階建ての道院を完成させました。aun_tunagu_vol04_03

道院の落成式では、感激して挨拶できないほどでした。皆の拠り所となる道院をつくりたいとの一心でやってきたことが現実のものになったのです。願望を持ち続けて努力したらそれは必ず成就するという一つの確証になりました。

※この写真は明石道院設立15周年記念で帰山した時の写真です。開祖との写真はもうこれしか手元に残っていません。


漸々修学

そうこうしている間に、仕事も定職が見つかりました。損害保険の仕事です。時間の自由がきく上に固定給がある、少林寺拳法との両立にぴったりだと思いました。ただ、少林寺拳法をやっているから仕事がおろそかになるのではなく、さすが少林寺拳法をやっている人は仕事もできると言われるように、一生懸命、それこそ人の倍、仕事をしました。そして時間を捻出し、少林寺拳法の指導に出かけました。

道院は、2004年に4500万円かけてさらにきれいに建て直しました。駐車場も整備し、1階は道場、2階は会議室と更衣室、生活できるワンルームも2部屋つくりました。これは住み込みで修行をしてもらうための部屋です。ここから指導者として社会に羽ばたいていってほしい、という願いを込めてつくりました。

拳士の拠り所となる場所、昔、ここで汗を流して仲間と修行したんだと言える場所、いつでも帰ってこられるふるさと。そういう魅力ある道院にしたいと思っています。指導方針は、魅力ある人間、魅力ある指導、魅力ある道院です。

振り返ると本当に、財産も何も無い、知り合いもいないところから、よくここまで来ることができたと思います。人間には無限の可能性がある、己を信じて努力する、という少林寺拳法の教えがあったからです。漸々修学です。いきなり天才にはなることは不可能ですが、一つ一つ階段を上がるように修行を積み重ねていけば、必ず高い境地に至ることが可能なのです。

拳士には「そんなまじめに取り組んでいたら病気になるから、遊ぶ時は遊んだらええ。だけど、やる時はやる。いかに一生懸命取り組んでやっていくかが大事。人生1回限り。振り返ってみて、自分なりに努力したな、悔いの無い人生だったと言いきれる生き方をしよう」と話します。

私は自分なりに精一杯生きてきたなと思っています。仕事も少林寺拳法も一生懸命。そりゃあストレスがたまることもたくさんありましたが、私のストレス解消は、道院で若い人たちと接して好きな少林寺拳法をすること、拳士の喜ぶ顔をみることです。だから、毎日がストレス解消です。家庭までは……さすがに体が一つしかないので寂しい思いもさせたかもしれませんが、家族はよく理解してくれたと思います。こんな幸せなことはないと思います。


温かみのある組織に、われわれは行動禅

少林寺拳法は温かみのある組織、人を大切にする組織でないといけないと思います。これは言葉ではなく、行動で築いていくものです。俗に言う絆です。

今は昔と比べて、人間関係が希薄になっているように感じます。変な意味での個人主義、自分が中心のように感じます。やはり義理人情は大切にしたいと思いますね。

以前、東海地方で大洪水があった時は、すぐ愛知県の道院長に電話しました。家が流されて道場に住んでいますと聞くと、拳士会にも声を掛けていくばくかの義援金を送りました。今回の東日本大震災でも、宮城県の道院長に連絡して、直接タオル100本を始め義援金を送りました。他にも誰か困っていると聞くとすぐに連絡とって支援を考えます。少林寺拳法をしていてよかった、仲間がいっぱいいる、と思ってもらいたい。何かあったらすぐ助け合える、この一つ一つの行動が信頼関係を深め、温かみのある組織につながるのです。

ある時期、神戸市須磨区に源心御流少林寺拳法という道場ができ、前豊中道院長の福本義徳先生と名称変更の交渉にいったことがあります。やっさもっさとやりとりをし、半年後に名称変更の確約をして変更させた記憶があります。

我々は行動禅です。教えを学んで云々ではない、思いやりを行動で表し、その行動の積み重ねで絆が強くなるのだと思います。仲間内での足の引っぱり合いにエネルギーを費やすのではなく、力をあわせたらもっと大きなことがたくさんできるはずです。

幸せで楽しい社会をつくる、そんな理想を無理と思うのではなく、やっぱりこうあるべき、だから努力しようという気持ちが大切です。少林寺拳法でつながった人間関係、この輪が広がっていくともっともっと金剛禅運動が広がっていくと思います。身近な理想境を広げていく。私はできるという気持ちがあるから今も金剛禅運動を続けています。

出会いをさせていただいたことに感謝、大病も無く健康でいられることに感謝、今、ここに生かされて仕事させていただいていることに感謝。