Vol.19 私は教祖ではないっ!

2015/07/15

少林寺拳法には指導者育成のために「少林寺拳法武道専門コース」という制度があります。学校法人禅林学園(専門学校・高等学校)が主宰し、全国37の都道府県に置かれ、予科から研究科までの計11年間(現在は研究院も置かれている)、少林寺拳法の指導者を志す人々が、それぞれの道院・支部で修行しながら、毎月一回、教え・技法・指導法などを研修する場になっています。

この制度は宗道臣が少林寺拳法の指導者を育てるために創始後いち早く自ら考案し、創設した「日本少林寺武道専門学校」(略称「武専」)を前身とし、逝去するまでにほとんど大成されていたものです。

宗道臣は、少林寺拳法の指導者を育てる場として「武専」を重視し、毎月一度の集中講座の日には、よほど重要な公務が入らないかぎり、自ら教えを説き、実技の指導に当たりました。ところが1965(昭和40)年、第一錬成道場の建設現場で最初の心臓発作に見舞われてからというもの、重度の発作の折には心が逸っても体が思うに任せず、休講せざるをえない日もできました。実技の場合は、宗道臣のめがねにかなって武専教員に任じられた高段者が指導に当たりましたから、ほとんど問題はありませんでした。しかし、宗道臣の学科の代講など容易なことではありませんでした。そんな折、「君、やってみないか」と本部職員に就任して間もない私が名指しを受けたのです。頭を抱えました。当時ようやく三段の私が、事もあろうに並み居る高段者に向かって「管長(宗道臣)の代講など恐れ多くて……」。しかし、宗道臣の「やってみないか」は「やりなさい」と同義です。案の定、最初の代講で高段者からの苦情の山でした。宗道臣は涼しい顔で、「文句があるなら、今度は君たちが私の代わりをやるかね……」。それで一巻の終わりでした。私は発奮しました。次第に頻発の度を深める発作に備えて代講用の小冊子を作ったのです。『少林寺拳法教範解説』です。「少林寺拳法教範」各章のねらいや問題提起など、“宗道臣ならどう説くだろう”と考えたうえ、まずは第一章の決裁を上げたのです。ありがたいことに、宗道臣に赤鉛筆で誤りを正し、不足を補ってもらえ、許可を得ました。

その後、残念なことに、宗道臣の発作はさらに頻度を増しました。勢い、学科に関する私の代講の機会も増え、『教範解説』も回を重ねました。原稿に朱書きの入ることもほとんどなくなりました。私は調子に乗っていたのでしょう。いつしか、このシリーズに限り、決裁なしで印刷に回すようになっていました。そして第11冊目、宗道臣から厳しいお叱りを受けたのです。それは「金剛禅」の教義を解説する章でした。私は、“金剛禅は釈尊の正しい教えを現代に生かす宗道臣の体験に基づく「宗道臣教」である”と書いたのです。

「言うに事欠いて『宗道臣教』とは何だ! 私は釈尊の正しい教えを奉じる『先達』にすぎんのだ。私は教祖ではないっ!」。返す言葉もありませんでした。

宗道臣には、「そんじょそこらの新興宗教と一緒にするな!」、釈尊の教えの王道を歩んでいるという自負があったのだと思います。

鈴木義孝

1930(昭和5)年、兵庫県神戸市に生まれる。大谷大学文学部卒業、姫路獨協大学大学院修士課程修了。16年間の中学・高校教員生活を経て、69年より 81年まで、金剛禅総本山少林寺、社団法人日本少林寺拳法連盟、日本少林寺武道専門学校の各事務局長を歴任。金剛禅総本山少林寺元代表。現在、一般社団法 人SHORINJI KEMPO UNITY顧問。194期・大法師・大範士・九段。

鈴木義孝