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vol.20 牧野清 少法師大範士九段 153期生

2012/01/27

人は一人ではない、開祖が教えてくれた人としての生き方
牧野清 少法師大範士九段 153期生

1933(昭和8)年7月、京都府生まれ。53年、関西大学第一高等学校卒業。54年11月、防衛庁(現・防衛省)技官に任官。85年に退官後、約3年間、南京都高等学校の副校長を務める。少林寺拳法は61年12月、京都別院に入門。70年、西陣道院設立、道院長を務め現在に至る。2000年5月より金剛禅総本山少林寺副代表を務めた後、07(平成19)年より名誉本山委員に就任。

牧野清 少法師大範士九段 153期生

開祖から人としての生き方を勉強させていただいたと思っています。少林寺拳法に出会っていなかったら今頃はどんな人間になっていたことか……喧嘩に明け暮れる毎日で一匹狼だった私に、人は互いに助け合い支え合って生きていることを、身にしみて実感させてくれたのは開祖でした。少林寺拳法に、開祖に出会って学んだことで、今はたくさんの人の縁に恵まれ、お金には換えられない喜びを感じています。これこそ財産だと思っています。


aun_tunagu_vol05_02開祖の大きな背中

私は、開祖が1961(昭和36)年に京都別院をつくられた時の第一期生として入門しました。格闘技や武道はいくつか心得があり、少林寺拳法も以前から名前だけは知っていました。その少林寺拳法が初めて京都で演武祭をすると聞き、達磨寺(法輪寺)へ見に行ったのがきっかけです。この写真はその時の開祖の演武です。

入門させてもらおうと、夕方再び達磨寺に開祖を訪れると、「紹介者はいるのか?」と聞かれました。当時は紹介者がいないと入門できなかったのです。生来の負けず嫌いでしたからつい、「今日が初めてなんだから、紹介者なんているわけないでしょ」と言ってしまいました。すると開祖は「それなら私が紹介者になってやる」と、直々に紹介者になってくれました。その時、黙っていればよかったのに「今日の昼の演武は申し合わせですか」と聞いてしまいましたが、開祖はニターッと笑うだけでした。

その夜、京都別院第一期生の入門式が行われました。入門式が終わり、法話の後、技の時間に20数人の拳士の中から「お前ちょっと来い」と開祖に声を掛けられました。前に出て行くといきなり技を掛けられて……あんな痛さは生まれてこのかた覚えがないですね。その後も、技の時間になると真っ先に私が呼ばれて技を掛けられました。

その日から開祖は香川の本山と京都をそれぞれ月の半分15日ずつ行き来され、道場には毎日立たれていました。その頃の鎮魂行は教典にある般若心経も全て読んでいました。聖句・誓願・礼拝詞・道訓・信条と進み、電気を暗くして般若心経へと続きます。開祖は節を付けずに普通に話している感じで読んでいましたね。掲諦掲諦まで来たらようやくああ終わりだなと思ったものです(笑)。

練習はものすごく厳しかったですよ。やはり護身術ですからね。技がかかってもいないのに転んだりしたら「八百長するな」とひどく怒られました。けれども練習が終ると「一緒に風呂に行こう」と銭湯へ誘われ、「疲れただろう」と背中を流してくださるのです。驚きました。普通に考えたら、師匠が新入りの白帯の弟子の背中なんか洗ってくれるはずがありませんから。もちろん銭湯では私も開祖の背中をお流ししましたよ。

銭湯の後は喫茶店でコーヒーを飲みながら、中国での苦労話などいろいろな話を聞かせてくださいました。さらに再び別院に戻って、今度は整法を教えていただき……、開祖の優しさと懐の深さに、この人にはとことんついて行くべきだと思いました。


aun_tunagu_vol05_03一匹狼のような生き方はダメだ

この写真は1962年の指導者講習会のものです。この時私は29歳で2級でしたが、開祖が直に指導されている京都別院は特別で、白帯でも指導者講習会への参加が認められていました。当時は茶帯がなくて白帯と黒帯だけ。下の写真は翌年の指導者講習会の写真です。開祖は汗かきでしたから夏はよく上半身裸になっていました。

61年12月に入門し、翌年の4月には高松市で行われた全国大会に乱捕りで出場していました。まだ演武はできないから乱捕りでという開祖のご配慮です。ところが入門間もない白帯が、乱捕りでバンバン黒帯をのばすものですから、「本当に白帯か」と驚かれましたね。その頃はまだ人の前でまともに話もできない、無口で喧嘩っ早い人間でした。

aun_tunagu_vol05_04私は親への反発からグレていた時期もあり、高校時代はもちろん防衛庁に入っても変わらず負けん気が強く、毎日のように因縁をつけられては喧嘩していました。「何メンチ切ってるんか」と言われると「どこ切れてます。どこも血出てませんや」と言い、「俺をなめてんのか」と言われと「そんな汚い顔なめてません」と人をおちょくる性格でした。ダンスホールで40人ぐらいを相手に喧嘩したこともあります。そんな気性を開祖に見抜かれていたのだと思います。少林寺拳法と出会って喧嘩をしなくなりました。昔の友達からは「お前、ようしゃべるようになったな」と驚かれます。自分は良い方向に変わることができたと思っています。

開祖からは、人間は一人で生きているのではない、一匹狼のような人生はダメだと、ことあるごとに聞かされました。京都別院は、少林寺拳法に共鳴した達磨寺の後藤伊山老師が土地を提供し、坂口繁蔵・ちよ夫妻が建設資金を始め物心両面で援助してくれたおかげで完成しました。開祖の元で、人のつながりの大切さを学びました。

京都別院1周年記念演武祭で初めて演武をした時のことです。小手抜きして打った裏拳が入り、相手が鼻血を出してしまいました。すぐ「見苦しい、やめい」と開祖に叱られ引っ込みました。ところがその後、皆の前に呼ばれて、「この男は1年前までは何もできなかった。それがこれだけできるようになった。成長したところを見てやってくれ」と褒めてくださったのです。この辺の、人の心の掴み方は絶妙でしたね。人は一人ではない、半ばは自己の幸せを半ばは他人の幸せを、というのを身にしみて開祖から勉強させてもらいました。


相手の目線にあわせる

道院だけでなく職場や日常生活でも、人を見て法を説き、相手の立場に立って考え行動する、人情の機微を知る開祖のやり方を真似してきました。

51歳で防衛庁を退いた後、南京都高校の副校長を約3年務めましたが、その頃の生徒が今でも遊びに来てくれることがあります。それも10人ぐらいでわーっと来てくれて、とても嬉しいです。クラス担任をした訳でも無いのに慕ってくれて、少林寺拳法の教えはどこでも通用するという自信になっています。

高校で何をしたかというと、相手の立場を思いやるという、開祖の教えをそのまま実践しただけです。ある時、職員室で正座させられコンコンと2時間近く説教されている生徒がいました。その顔に納得の色が伺えない。職員室の外で生徒を呼び止めそっと別の教室に連れて行き、1対1で話を聞きました。「話を聞くと確かにお前が悪い。けれども、あんなところで正座させられて2時間も言われて殴られて、腹が立たないか。俺なら腹が立つ。だから二度とあんな目に遭わないように直せよ」と言うと、10人中10人とも泣きました。「ばかもん、泣くな、顔洗ってこい」とハンカチを渡す。ハンカチはいつも2枚持っていました。あの先生は恐いけれども俺たちのことを分かってくれている、という話が浸透して、多くの生徒が私の言うことは素直に聞いてくれました。防衛庁でも、「班長は厳しいけど俺らの気持ち分かってくれる」と部下はついてきてくれました。

aun_tunagu_vol05_05私は2級の時に桂自衛隊に少林寺拳法部を作りました。その時の写真が右です。部を作った時に開祖から言われたのが、「上司が入ってくるようになったら一人前だ」ということです。ですから、会社に少林寺拳法部を作る人には、開祖と同じようにそう言っています。

また、私は奥さんの理解が得られないなら道院長はやらない方がいいと話もします。やはり、一番身近な方に理解してもらえなかったら続けるのは難しいですから。道院では、助教の人たちが奥さんを連れて一緒に達磨祭に行きますが、ほとんどの奥さんは達磨祭を見て、「主人がなぜ一生懸命になるのか分かる」と納得してくれます。中には自分も少林寺拳法を初めて三段になる人もいました。

子供を教えるときは、目線をあわせて技を教え、絶対に上から話さないようにしています。開祖は、相手が3級だったら、自分が2級ぐらいに下がって教えなさいと言っていました。

どれも開祖の教えをそのまま実行しているのです。まずは真似から。未だ開祖の足元にも及びませんけれど、少しは人の気持ちがわかるようになったかなと思っています。


aun_tunagu_vol05_06開祖が伝えたかったこと

開祖が本当に伝えたかったことは何か、指導者クラスはしっかりと勉強して理解しておく必要があります。開祖が言われた「原点に帰れ」という言葉の意味を、おこがましい言い方ですけれど指導者クラスは本当に分かっているでしょうか。1から10まで誰かにやってもらえるとか、学んだことをどう活用するかが分かっていない指導者が増えているように感じることがあります。

開祖の願いは、戦争に負けて自信を失った日本人に、道徳心と思いやりにあふれた本来の良さを取り戻したいということでした。日本人に自信と勇気を与え、真の平和で豊かな社会をつくる、まさに人づくりによる国づくりですよね。戦後よりも、今の方がより切実に必要とされているように感じます。

私は練習が終って必ず30分くらいは、お茶飲みながら門下生と語り合います。法話みたいなものです。皆さんそれがものすごく楽しいと言ってくれます。私は自分がそうであったように、人間には無限の可能性がある、絶対に変われるとよく話します。開祖に、少林寺拳法に出会い変わりました。

私が亀岡市内に建てた道場の名前は、ハイツ少林寺です。この4階建ての道場は、拳士や協力者のおかげで建てることができたと思っています。2〜4階を学生マンションにして家賃収入で返せるようなローンの組み方をアドバイスしてくれたり、億単位のお金を使いますので銀行を紹介してくれたり、動けば必ず誰かが助けてくれるのです。

最初に建てた道院は、1979年暮れ、緊急道院長講習会での開祖の言葉がきっかけです。開祖は、「道院は礼拝施設を有さなければならない」と道院長に足元を見直すことを強く訴えました。そのため、すぐに京都市内の20坪の平屋を潰して3階建ての道院を建てました。突然大金を使ったものですから、どこかにお金を隠しているのではないかと、税務署が調べに来ましたが、もちろん退職金を前借りして建てたので違法なことは何もしていません。道場を建てて「おう、ようやったな」と言われたのが、開祖からの最後の褒め言葉になりました。


少林寺拳法の技は生きている

少林寺拳法の修練で使用していた学校が廃校になった時、学校側からは建物がつぶれるまで使ってくださいと言われました。使用を断ったスポーツ団体もある中、地元の人間でもない私にだけはそう言ってくれた、それは今までの私達の活動を見てくれていたからです。

私達少林寺拳法は掃除の道具を自分達で買って掃除をし、花壇に水をやったり、グラウンドの草むしりをしたり、ゴミも全部持ち帰ります。一番驚かれたのが、トイレ掃除でした。冬でも水を使い裸足で掃除しているのを当時の体育振興会の会長が見て、「これは本物だ」と言ったそうです。

少し自慢話になってしまいますが、学校の全生徒が少林寺拳法に入った時もあるんですよ。始めと終わりにきちんと掃除して帰り、靴はきちんと揃えている私達を見て驚いた校長先生が「他のスポーツをやる前に少林寺拳法で行儀を習いなさい」と子どもたちに話されたそうです。それで全生徒が少林寺拳法に来たのです。これも相手のことを考えて行動するという開祖の教えを実践した結果のことです。

「技の中に人生の縮図がある」というのが私の持論です。同じ逆小手でも、相手によって反応が違いますから、当然掛け方も変わってきます。技は生きている。人生と同じ、どう活用するかです。

七段や八段を持っていても、少林寺拳法をしていない人から見たら、ただのおっさんです。けれども有事の際、先頭に立ち皆をひっぱり、体を張って守る指導者でありたい。「てきぱきと指揮をとるあのおっさん、何かやってるのか」「少林寺拳法の指導者です」「ああ、さすがや」というおっさん。人の噂は75日で、少林寺拳法の指導者ということはすぐに忘れられてしまうでしょうが、それでも「あのおっさん元気にしているかな」と思ってもらえるような、そういうおっさんになりたいと思っています。

やはりすべては人の質です。学校の先生がしっかりしていたら子供もしっかり育つように、指導者の質で社会が変わります。金剛禅は指導者を育てる道なのです。