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Vol.20 宗道臣との出会い(上):バンザイするしかないだろう

2015/08/17

宗道臣と私の出会いの物語です。

宗道臣に出会ったとき、私は高等学校の教員でした。13年間の私立女子高と公立中学校勤務を経て、新設間もない私立の男子高校に勤務していました。それまでの経験を通して、教育現場での指導にはそれなりの自信を持ってはいましたが、そんな自信など最初の一週間であっさり吹っ飛びます。もともと軟弱で、武道はおろかスポーツ経験すらろくになく、“悪ガキ”どもの格好の標的としてなめられてしまったわけです。たまたま、悔しさに歯ぎしりする私を見かねてか、地元の道院に通っていた生徒が、「少林寺拳法、やってみたら」と誘ってくれたのが始まりでした。1965(昭和40)年の春、35歳の新入門でした。

「ばかにだけはされたくない」の一心から、ひたすら稽古に打ち込みました。恐らく、強くなりたい思いが先走って、血走ってもいたのでしょう。道院長から、「本部の講習会に行って、管長先生(宗道臣)のお話を聴きませんか」と声がかかったのです。入門して、わずか三か月でした。

音に聞く、あの「宗道臣」に会える! 私は舞い上がっていました。まだ、桃陵公園の一画を占める錬成道場群は存在せず、現在は「旧道場」と呼ばれている、町なかの本部道場で、すし詰めの黒帯受講者の中に、ただ一人白帯の私は、小さく固まりながら「管長法話」のときを迎えたものです。

初めて見参する道衣姿の宗道臣は、私を圧倒しました。何よりも堂々たる体躯からにじみ出る威厳。太縁の眼鏡に漆黒の豊かな髭(ひげ)、やや高めながら歯切れのいい声調に、噛んで含めるような表現。時に柔らかく、時に厳しく……。

「君らに聞きたい。少林寺拳法の何段だとして、それの、何がすごい?」。

正直、驚きました。仮にも少林寺拳法の創始者自身が、“少林寺拳法の高段者なんて、何ぼのもんだ”と言いきるのですから。

「無手の格闘術なんて、ピストルにはかなわんのだ。銃を構えた何人もに囲まれてみろ。バンザイするしかないじゃないか。手を上げていれば、相手がばかか狂人でないかぎり、いきなりズドンと撃ちはせん。無事にその場を生き抜くことが大事なんだ。こんな奴らに負けたんじゃないと思え。自分が負けたと思わなければ、負けではないのだ。だから大陸では、私はいつも丸腰で歩き続けたのです」。

「本当の強さというものは、裸になったときの強さなのです。だから、技がうまい、乱捕りが強い、それだけ、というのは、決して褒めるべきことではない。なあ……」

最後に、「それだけだ。何か質問はないか」

私は納得しました。ただ、一、二引っかかるところがあって、思わず手を挙げてしまったのです。どんな愚かしい質問だったかは、思い出すだに赤面ものなのですが、それは次回に。

鈴木義孝

1930(昭和5)年、兵庫県神戸市に生まれる。大谷大学文学部卒業、姫路獨協大学大学院修士課程修了。16年間の中学・高校教員生活を経て、69年より 81年まで、金剛禅総本山少林寺、社団法人日本少林寺拳法連盟、日本少林寺武道専門学校の各事務局長を歴任。金剛禅総本山少林寺元代表。現在、一般社団法 人SHORINJI KEMPO UNITY顧問。194期・大法師・大範士・九段。

鈴木義孝