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vol.22 速水信之 少法師大範士八段 211期生

2012/05/27

開祖の教えと技に魅せられ、歩むこの道に悔いはなし
速水信之 少法師大範士八段 211期生

1937(昭和12)年2月、愛知県生まれ。農林省名古屋営林局に勤務していた66年、尾張守山道院開設の公開演武会場で入門を申し込み、71年、名古屋営林局支部設立。74年、名東道院設立。85年、法務省名古屋保護観察所に出向。97(平成9)年、中部地方更生保護委員会勤務で定年を迎え、退職後は保護司として活動を続ける。この間転勤、出向を経験するが道院長を続け、現在に至る。中央委員、出版審議会委員長など多くの役職を歴任し、07年より名誉本山委員に就任。2013年6月19日逝去、満76歳。

速水信之 少法師大範士八段 211期生

転勤が避けられない国家公務員の立場で、よく道院長を続けられたと感慨深いものがあります。閉鎖を覚悟したときもありましたが、協力者や拳士に支えられ、いろいろなことが幸いして続けてこられました。医師の誤診で危うく命を落としかけ、虫垂穿孔腹膜炎で約1か月入院したことが人生について考える機会になりました。そして、その年にまずは職場に支部を、3年後には道院を設立しました。また、支部設立の翌年からは本部委員を拝命し、精いっぱい務めてきました


危うく命を落としかける

1971年に虫垂穿孔腹膜炎を起こしたことが転機になりました。最初、内科で大腸カタルと診断され、お腹を温める処方箋を出されて帰宅しました。しかし、それは虫垂炎には最も悪い処置だったのです。その後、家内が見かねて救急車を呼ぼうとするほど容態が悪くなり、それでも必死に痛みをこらえ自分で車を運転して病院へ行きました。そしてそのまま約1ヶ月の入院に……虫垂炎が破裂し、膿が腹中に回った危険な状態で、医者からもよく命があったと言われるほどでした。その入院中、人生についていろいろと考えました。

私は尾張守山道院の一期生にあたります。63年、『秘伝少林寺拳法』(光文社・絶版)を読み、初めて目にする構えと力強い教えに驚きと共感を覚えました。その3年後、尾張守山道院開設演武会があるというので、さっそく見学に行ったのです。その時1歳の娘を抱いていたのですが、鎮魂行の打棒の音に驚き、泣き止まないので急いで家に帰り、娘を置いて引き返しました。そして即、加茂雅久道院長に入門を申し出たのです。

以後、開祖の教えと精妙な技に魅了され、少林寺拳法は努力すれば誰でも指導者になれると知って修行に励み、三段になった時からは道院を開きたいと考えていました。そして幼稚園やお寺などいろいろあたりましたが見つかりません。行き詰まっていた時に命を落としかけたのです。

入院中、いつ死ぬか分からないのだから、とりあえず職場に支部をつくろうと決心しました。そして退院後、名古屋営林局支部(廃止)を設立しました。本当に、人生は何が幸いするか分かりません。

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不撓不屈の精神で

当時、職場では福利厚生の一環として文化体育活動を奨励していたことも幸いしてすぐに10人以上が集まり、大会議室を使っての活動を始めることができました。いずれ官庁街で道院を設立したいと考えてチラシを周辺の官庁街に配っていましたから、警察官や麻薬取締官、刑務官など逮捕術が必要な人も通ってきました。私もかつてはいろいろ武道をかじりましたが、力の強い人や体の大きな人には歯が立たず限界を感じていました。ところが、少林寺拳法の技は今まで歯が立たなかった人にもおもしろいように掛かるのです。私と同じように技に魅せられ他武道の先生も入ってきました。近くのキリスト教系大学からも外国人がたくさん来て国際色も豊かになり、あっという間に半数以上が職場外の人になってしまいました。

さすがに、職場の中で修練するには限界となり、別に場所を借りて練習することにしましたが、官庁街にある民間施設は賃料が非常に高かったのです。しかも、その頃から私は中央委員に任命されていましたので、多い時は月に2回くらい少林寺拳法本部に行かなくてはなりません。部費は事情を説明して他のクラブの10倍の500円にしてもらいましたが、会場の借用料が高い上、交通費は当然自腹、家計は厳しかったですね。そこで安定した継続活動をするため、官庁街での道院設立を諦め範囲を広げて場所を探すことにしました。

73年8月、名古屋市東部に民間の研修施設を見つけ、借用を申し出ました。館長は私の話に非常に理解を示してくださり、快諾を得ることができたため、さっそく道院設立の準備を始めました。ところが数日後、断りの電話が入ったのです。以前から利用している他武道の指導者が反対しているという理由でした。少林寺拳法に門下生を取られると思ったようです。館長室に駆け込み、粘り強く頼んだのですが了解を得られず、あきらめかけたその時、馬の鞍が目に入りました。「乗馬をやっておられるのですか」と聞くと、乗馬クラブを任されているとのこと。私も乗馬が趣味で指導員をしていたこともあって話が弾み、館長の乗馬クラブの手伝いをすることになりました。そして今度は館長が他武道の指導員を説得してくれることになって名東道院が誕生したのです。そこからはすごい勢いで道院は伸びていきました。


ひげをはやした理由

当時、道院活動は週3回が原則でした。日常生活の中に組み込むためにはそれくらいの頻度が必要だと開祖が考えておられたからです。あいにく施設は週2日しか空いていなかったため、もう1日分は他の場所をその都度申請して確保し、バレーボールやバスケットボールをしている隣で鎮魂行をすることもありましたが、大人ばかりでしたので気にしないで続けられました。そして3年後には、城山八幡宮養心殿を借りることができ、先の民間施設とあわせて週4回練習するようになりました。

当時、私はひげをはやしていましたが、これには理由があります。

入院し支部を設立した71年、私は管理職に昇進しました。高度経済成長期でモーレツ社員という言葉が流行し、家庭を省みずに働くことが当たり前の時代でした。就業時間が終わると役職者で反省を含めた雑談を行う風習があり、それがなかなか終わりません。そのうちお酒も飲むようになり、昇進したばかりの新参者が、お先に失礼しますとは言えません。少林寺拳法の練習があるからと話をしても、単に突いたり蹴ったりを教えているくらいに考えてなかなか分かってもらえず困りました。そこで、思い切ってひげをはやし、注目を浴びることにしたのです。今は珍しくありませんが、当時、公務員でひげをはやしている人は私の知る限りいませんでした。職場の機関誌に投稿していたこともあり、狙い通り、私自身も少林寺拳法も話題になりました。aun_tunagu_vol07_03

名東道院開設5周年記念大会は、愛知県知事を名誉大会長に仰ぎ盛大に開催しました。営林局長にも大会顧問として加わってもらい、随行した人事課長も大会の内容に驚いていました。この大会のおかげで少林寺拳法に対する理解が深まり、多くの支援者を得ることができました。
※1979年3月、家族と共に撮った開祖との記念写真


信じる道をただひたすら

私は農林省の名古屋営林局へは法律職の事務官として採用されました。労働争議が熾烈な時期で、余り知られていなかった肖像権・施設管理権等の管理職指導書を作成したり、国の指定代理人として訴訟を担当していました。法律職の事務官は私一人でしたので、長期間転勤しなかったことが、支部・道院の運営において幸いしました。また、仕事の関係で判例を調べていたとき、本山で係争中の訴訟に有利な判例を見つけたことが縁で、支部を設立した翌年に本部委員に任命され、定年を迎えるまで続けさせていただきました。

本部へは毎月2回の委員会のほか、学生指導の手伝いや、指導者講習会で正当防衛論の講義をしたこともあります。仕事は生活のためと割り切って、少林寺拳法中心でしたね。人事評価がマイナスになることは覚悟の上、それこそ身銭を切って働きました。

しかし、国家公務員に転勤は避けられません。さすがに断りきれなくなり、転勤も経験しました。道院の記念大会などで職場の理解を得ていたこともあり、ある程度配慮してもらえたのは助かりました。単身赴任をしましたが、練習日は時間休をとるなどして続けることができたのです。

そうは言ってもいずれはより遠方へ転勤しなければなりません。仕事と少林寺拳法の両立は常に課題でした。何か方法はないか考えていたところ、第二次臨時行政調査会(土光臨調)により省庁間異動が可能になったのです。職員を減らさなければならない営林局で私はそれを勧奨する立場でしたので、まず自ら申請しました。当時管理職で手を挙げたのは全国でも私が初めてでした。申請に際して、定年退職後は保護司になるという計画と少林寺拳法を手段とする社会教育活動を続けたいという条件をつけて法務省に出向を希望しました。認められなかったときは早期退職も覚悟し、社会保険労務士、司法書士、行政書士などの資格を生かした事務所を開くことを考えていました。とにかく少林寺拳法は何が何でも続けたいと思っていたのです。

85年、出向が認められ保護観察官に任命されました。法務省はこれまで経験したことがないくらい忙しかったのですが、道院は幹部が育っていましたので大丈夫でした。3年目以降は毎年、管理職になるよう勧められましたが、転勤が条件ですので出向時の希望に変更がないことを話して理解を得ることができました。この背景には、少林寺拳法を通じて得た人脈で更生保護活動に対する協力を続けていたこと、および後援者が主催する異業種交流会の会員による更生保護関係団体への寄付の継続が評価されたためです。

このように、仕事と少林寺拳法を続ける環境を無理矢理作ってきましたが、道院を続けてこられたのは幹部のおかげです。閉鎖を覚悟した時も拳士が一丸となり支援してくれました。無事に定年を迎えることができたときは、仕事との両立の悩みから解放されてほっとしました。

話すといろいろ思い出してきますね。仕事と道院とその上に本部中央委員まで、奉仕の精神で本当によくやってきたなと思います(笑)


aun_tunagu_vol07_04少林寺拳法は生活の一部

ありがたいことに今のところ老眼など加齢による症状もなく健康に恵まれています。少林寺拳法を続けていたからこそ、今のように元気でいられるのだと思っています。しかし3年前、家内に中咽頭癌がみつかり、今も粘り強く治療を続けています。

私が最初に感銘を受けた力愛不二という教えは、仕事でも大いに実感するものでした。保護観察官は体格の大きな力のありそうな人を相手に話をしなければならないことがあります。そういう場面でも怯まず自信を持って対応できたのは、少林寺拳法のおかげだと思っています。

2013年に保護司の定年を迎えますので、それを機に道院長交代を考えています。が、少林寺拳法から離れることは考えていません。少林寺拳法は私にとって生活の一部になっていますから、高齢者が生涯修行の道をどのように続けていったらよいかを模索しながら金剛禅の教えを多くの人に伝えていきたいと思っています。