Vol.23 “政治屋”にはなるな!

2015/11/15

「先生、次の参院選にご出馬願えませんでしょうか」。この類いの話を、宗道臣の傍らで、私は何度となく聞いています。参議院選挙に全国区から立候補してほしいという自民党関係筋からの依頼です。1970年代、宗道臣最晩年でした。「政治家になる気は全くありません」。宗道臣の答えはいつも決まっていました。政治が嫌いなのではありません。政治家を嫌ったわけでもありません。弟子の中には国会議員も地方議会の議員も少なくはないのです。自らが政治家になることを拒否したのです。人づくりによる国(理想境)づくりが信条でしたから、世直しの手段として政治の大切さは百も承知でした。指導者講習会や大学少林寺拳法部本部合宿などの講義では、折に触れて、時の国際情勢から日本の政治状況まで、その理非曲直を明らかにしながら、本来あるべき形を語ったものです。

政治家になっても政治屋にはなるな」。弟子が政治家になることまで否定しませんが、勧めることはありませんでした。「政治家になるより、政治家に影響を与えられるような指導者になれ」というのです。「君がどんなに優れた経綸を持っていようと、政治の場は数の世界だ。仮に当選したとしても、新人としてどこかの派閥に組み込まれて、ただの一票なんだよ」「それより、うんと努力して、あの人の言うことなら……”と無条件で賛同し、協力してくれるような指導者を目指さんか。もし、10人の政治家が、君の主張に共鳴して行動したら、君は10票を持つ政治家と同じじゃないか」

さて、こんな話を思い出したのは、前回のこのコラムで、「もし、宗道臣が今の世を生きていたら」と書いたのに触発されたからです。

もし、今の世で宗道臣が参院議員選に出馬を求められたら、どう答えただろうか

もちろん拒否するに決まっていますが、そもそも、今の時代のこの国では、宗道臣にそんな要請が来ること自体がありえないと私は考えます。宗道臣は、自身の政治的な立ち位置について人に聞かれれば、「言ってみれば、私は中道やや右寄りかな」と豪快に笑い飛ばしていました。また、当時の自民党は、右翼もどきのいわゆるタカ派から社会民主主義すれすれのハト派までの寄り合い所帯でしたし、党是として「憲法改正」を掲げてはいましたが、それなりに左右のバランスがとれていたように思えます。

ところが、宗道臣の死後35年。東西冷戦構造の崩壊を境に、世界は激変しましたが、この国も目まぐるしく変わりました。とりわけ、「武器輸出三原則」が「防衛装備移転三原則」に化け、政権上げて武器輸出を奨励したり、集団的自衛権を閣議決定で軽々と容認し、「安全法制整備法案」を強行採決してしまうのを見るにつけ、宗道臣の立ち位置が、いつの間にか、「なんと左へ寄ってしまったことか」とため息がでるのです。

生前、徹底的に平和を希求する者として、「この国を二度と戦争する国にしてはならん」と警鐘を鳴らし続けた宗道臣に、間違ってもお呼びがかかるわけがないと考える次第なのです。

鈴木義孝

1930(昭和5)年、兵庫県神戸市に生まれる。大谷大学文学部卒業、姫路獨協大学大学院修士課程修了。16年間の中学・高校教員生活を経て、69年より 81年まで、金剛禅総本山少林寺、社団法人日本少林寺拳法連盟、日本少林寺武道専門学校の各事務局長を歴任。金剛禅総本山少林寺元代表。現在、一般社団法 人SHORINJI KEMPO UNITY顧問。194期・大法師・大範士・九段。

鈴木義孝