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vol.25 松木長實 少法師大範士八段 223期生

2012/11/27

一番大切なのは人間関係、信頼できる友が多いほど幸せな人生
松木長實 少法師大範士八段 223期生

1931(昭和6)年1月、広島県生まれ。1955年4月、労働省(現・厚生労働省)に入省。定年退職後、1990年、財団法人少林寺拳法連盟東京事務所所長に就任し、2001年まで勤務する。67年4月、東京祖師谷道院に入門。69年、労働省支部設立(現・厚生労働省少林寺拳法部)。70年、全日本実業団少林寺拳法連盟設立。72年、鷺沼道院設立、道院長を務め現在に至る。他に神奈川県少林寺拳法連盟理事長、中央委員を初め多くの役職を歴任し、09年、名誉本山委員に就任、現在に至る。

松木長實 少法師大範士八段 223期生

開祖が東京に見えるたびに二人きりでお話する機会があり、ずいぶん薫陶を受けました。私が労働省に勤めていたことから開祖は労働行政の重要課題を次々質問されました。また、開祖の目は国内問題だけでなく世界にも向いており敬服しました。教えの中でも私がいちばん重要だと思うのは、信頼できる人間関係をいかに築くかということです。省庁の垣根を越えて築いた人間関係は、その後、さまざまな場面で私を助けてくれました。信頼できる人間関係を築く、まさに金剛禅運動です。開祖の特命を受け組織の向上発展のためにひたすら努力してきました。これからも一生青春の気持ちでお役に立ちたいと思っています。

aun_tunagu_vol10_02孫弟子に優しい

少林寺拳法との出会いは上司が拳士だったことにあります。私は小学校の時から剣道と柔道をやっていましたので、常々また武道をやりたいと思っていました。ある日、仕事帰りに飲んでいた席で、「松木さん、また剣道やるの? 拳法やったらどう?」と言われたのがきっかけです。

気象庁支部(故・安在孝夫支部長)が屋上で練習していると聞いてさっそく見に行きました。コンクリートの上で投げ飛ばしたり受身をしたりしているのを見て、これはすごい、実践的だと思いましたね。私も少林寺拳法をやりたいと上司に話すと、「じゃ、東京で一番いい道院を教えるから」と紹介されたのが、故・内山滋道院長の東京祖師谷道院です。

当時は道院に入るために履歴書の提出が必要でした。履歴書を見た内山先生に「私の後輩だな」と言われて驚きましたね。内山先生は香川県の労政事務所に務めていたのです。そうしたご縁もあり、先生にはたいへんかわいがっていただきました。私が鍛えてやるからと親身になってご指導くださり、昇段も最短で受験させていただきました。

開祖とお話しするようになったのも内山先生のおかげです。ある日、「松木、わしゃのう疲れてしもうた。開祖が東京に来られた時は、私に代わってお前が相手をしてくれないか」と言われて……。「とんでもない、無理です」と断ると、「孫弟子には優しいから大丈夫」と(笑)。以来、開祖が東京に来る度に、二人きりで結構長い時間お話ししました。

ずいぶん薫陶を受けましたよ。私にとって開祖は雲の上の存在でしたから最初、何を話していいか分からずかしこまっていると、開祖は賃金、雇用管理、定年制など労働行政の重要課題を次々質問されました。労働省(当時)に勤めていた私のことをちゃんと調べていたのですね。また、開祖の目は国内問題だけでなく世界にも向いておりいろんな話をしてくれました。単なる武道家ではない、思想家としても教育者としても宗教家としても一流で、ものすごく勉強していたのだと思います。おかげで私も視野を広げることができたと思っています。開祖は私に対してすごく優しくて、親父みたいな感じで接してくれました。今考えても本当に幸せな時間でした。

aun_tunagu_vol10_03労働省は人を相手にする仕事、金剛禅運動の実践

少林寺拳法と出会った頃、私は労働省で係長になり、雇用管理の仕事に従事していました。全国の雇用環境を研究してハンドブックをつくるなど忙しさは半端ではありませんでしたが、それでも練習時間までには必ず仕事を終えて出るようにしました。ただ早くに帰る分、人より1時間以上早く職場に行って仕事をしていました。ですから、上司も認めてくれたのだと思います。今思うとよく体力が続いたなと思います。若かったからですね(笑)。ありがたいことに、課は違うけれど同じ広島出身の同僚がよく仕事を助けてくれました。彼も私と一緒に少林寺拳法を練習し、二段まで取りました。やはり人間関係は大事にしなければならないと思います。足を引っ張り合うのではなく、お互いに助け合うことが大切です。役所の中で自他共楽を自分の周りから実践していきました。

当時、私は合同官舎に住んでいました。そこでも大蔵省、通産省、総理府といろいろな省庁の人がいる中で係長同士、ワイワイと情報交換していました。一番現場を知っている係長同士、省庁を越えて助け合う関係を築いていったのです。労働省は人を相手にする仕事です。金剛禅運動、開祖の言った助け合い運動をまさに地でいく仕事である、と誇りを持って取り組んできました。

少林寺拳法を始めて2年目、雇用促進事業団への転勤と同時に支部(現・厚生労働省少林寺拳法部)を設立しました。二段の時です。遠藤政夫職業安定局長、谷口隆志事務次官、渡辺信厚生労働審議官など労働省幹部のそうそうたるメンバーが、金剛禅の教えは労働行政に役立つ非常に重要なことを言っていると活動を後押ししてくれましたし、毎年のように10〜20人の新入部員が入ってきました。

さらにその3年後にはぜんそく持ちの息子を鍛えたいと鷺沼道院を設立しました。植村道場という竹林の中に古色蒼然と建つ道場を借りることができたのは幸いでした。道場主の植村氏は剣道を教えていましたが、鷺沼地区の青少年健全育成に尽力した方で少林寺拳法も支援してくれました。植村氏が亡くなり道場は取り壊されましたが、古くからの拳士達は「先生、あそこはよかったですね」と懐かしむ、思い出深い道場です。

少林寺拳法の目的は社会に役立つ人づくりです。拳士には「人は君たちの背中を見ている、目標とされる人間になりなさい」と指導してきました。皆ひたむきに修行に取り組み、教えを実践していきましたので、職場でも厚遇されていました。労働省支部でも課長や部長に昇進する人が多くいました。少林寺拳法をやっているから仕事がおろそかになるようではだめなのです。仕事でも中心的存在になるように、一目置かれ尊敬されるようにならないと修行している意味がありません。教えの実践で人間の質を高める。金剛禅の布教自体が日本をよくすることにつながるという信念を持っています。

aun_tunagu_vol10_04少林寺拳法史上初の法話を中心とした大会

労働省に支部をつくった直後、内山先生に呼ばれ「管長(開祖)から重大な特命が出た。実業団連盟をつくれ」と言われました。ええーっ、まさに驚愕動転です。「私も後押しするから心配ない。やれ」と言われ否応無しでした。すぐに素案をつくり関東実業団連盟として本部登録し、開祖に報告に行きました。すると開祖から「全国組織にして欲しい」と指示があり、全日本実業団少林寺拳法連盟ができたのです。その年の全国大会には「実業団の部」が新設されました。

aun_tunagu_vol10_0573年に行われた、第一回全日本実業団少林寺拳法大会は特に思い入れがあります。開祖から「実業団では少林寺拳法の大会の総決算をやる」とのお言葉をいただき、今までにない大会とするために智恵を絞りました。そうして考えたのが、開祖法話を中心にした大会です。会場も従来のような競技用体育館ではなく日比谷公会堂とし、開祖法話とステージでの演武発表を一般公開することにしました。

大会3ヶ月前に、少林寺拳法振興議員連盟会長を務める江崎真澄自治大臣から「中国大使館もお招きしなさい」と指示がありました。前年に日中共同声明が出されたばかりで、まだ日中友好条約締結前です。aun_tunagu_vol10_06この時期に中国大使館を招待するということは、実業団の枠を超え、少林寺拳法全体、さらには国家間の問題でした。開催準備だけでも手一杯で「辞退すべき」との声が多く、説得に苦労しましたが、最後には皆、私と行動を共にしてくれました。内山先生と共に何度も中国大使館を訪問しましたね。そして、李連慶参事官ら5名の出席が実現しました。また、竹田恒徳IOC理事、松平頼明本郷学園理事長、笹川良一財団法人船舶振興会会長などそうそうたる方々を来賓としてお招きすることができました。

大会2日前、上京された開祖を海老名インターチェンジでお迎えした時のことは忘れられません。開祖はすでに度々の心臓発作に悩まされていましたが、たとえ壇上で倒れたとしても必ず上京すると、大会前にお話しくださっていました。海老名に着いて車から降りられた開祖のお顔には、長旅の疲労が見受けられましたが、私の手をしっかりと握られ「男の約束だから来たよ」とおっしゃったのです。これまでの苦労が一挙にぬぐいさられ、万感胸に迫るものがありました。開祖の車の後に続いて東京に向うタクシーの中で込み上げる涙を止めることができませんでした。

大会当日は晴天に恵まれ、大成功に終りました。日比谷公会堂周辺は連盟旗が立ち並び、少林寺拳法一色でした。会場は満席で、少林寺拳法と中国の友好交流の幕開けとなったこの大会の模様はNHKをはじめ各テレビ局で放映され大きな反響を呼びました。

実行委員は皆それぞれに仕事が忙しい中、一丸となって本当によくやってくれたと思います。「実業団連盟は職域における金剛禅運動の先兵である」という開祖の言葉を誇りに行動してきました。

aun_tunagu_vol10_07木を見て森を見ずではいけない

その後も開祖の命を受け、組織の全国法人化などに尽力してきました。やはり何かあると頼りになるのは人間関係です。省庁の垣根を越えて築いた人間関係はその後さまざまな場面で私を助けてくれました。

私が一番大切にしている開祖の教えは「信頼できる人間関係を築く」です。開祖は「信頼できる友人が多いほど幸せなんだ」と口癖のように言われていました。人という字にあるように、支え合って私たちは生きています。自分一人だけではバタンと倒れてしまう。だから相手のことを考えながら、支え合い助け合うことが大事なのです。私は「信頼」を大切にしてきました。職場でも、少林寺拳法でも、人間関係を大事にするからこそ、何かあった時に力になるのです。思いもかけない時に、先生にはたいへんお世話になりましたと言われることもありました。私に少林寺拳法を引き合わせてくれた上司や、係長時代に助け合った同僚とは今でも付き合いがあります。

なお、組織で大事なことは「木を見て山に登れば道に迷う、森を見て山に登れば頂上を極める」ということです。指導者は広い視野で物事を見て、10年先を考えて行動しなくてはなりません。100年先のことを言えばバカだと言われてしまいますが、10年先のことも展望できないようではいけません。

そのためにも、いろんな経験をして判断力を養い、自分の行動に責任を持つことが大切です。信頼を裏切ってはいけない。人生は長いようで短い、あっという間です。でも、信頼できる人間関係を築いていけば、心豊かな、恵まれた人生になると思います。

aun_tunagu_vol10_08武士の魂

今の日本人は大切なことを忘れているように感じています。それは「武士の魂」です。

武士の魂の一つ目は「惻隠の情」つまり愛、思いやりです。もともと武士は気の毒な境遇の人や困っている人、子どもに特別な気持ちを持って優しく対処してきました。開祖も義理人情に厚く涙もろい方でした。

二つ目は「卑怯を憎む心」です。弱い者いじめはしない、大勢で一人を殴らない、女性を殴らない、人の弱みに付け込まない、うそはつかない等です。これを破れば恥であり卑怯者とされるのです。今の世の中、政治やマスコミをはじめ、多くがこの精神に欠けているのではないでしょうか。

三つ目は「人の道」です。正義、人道に基づく行動です。「丹識」という言葉もあてはまります。丹力と認識・知識がなければだめです。自分の行動が本当に世のため人のために役立っているのか、その認識が必要です。間違った考えはだめなのです。

幕末は、日本の将来を憂う多くの若者が命を懸けて明治維新をやり遂げました。坂本龍馬をはじめ多くのサムライの志は「武士の魂」から発せられたのです。今の日本でも、外交も内政も、この日本人の精神的支柱を大切にしないといけないと思います。

それから私が道院でいつも言うのは「元気・根気・勇気」の3つの気です。
まずは元気で明るいこと。何か問題があった時には勇気をもって対処する。そして事を成すには根気が必要です。1パーセントでも望みがあればあきらめてはいけないと話をします。多くの人は99パーセントだめだとあきらめてしまう。でも、最後まで絶対に逃げない、食らいつくことが大事です。そのために私たちは少林寺拳法で心と身体を鍛えているのです。人生最後に勝つのはあきらめなかった人です。

いつでも私は元気ですよ。一生青春、一生現役だと思っていますから(笑)。要はそういう気持ちがないとダメということです。もう年だからと思ったらそこで終わりです。50、60まだつぼみ、70、80で青春です。そういう気持ちでいるといつまでも若く、精神的に年を取りません。私なんてまだまだ、そう思って社会に貢献していきたいと思います。