Vol.25 駄目なものはダメ、嫌なものはイヤと言える勇気を養いたい

2014/08/10

1945年8月に広島・長崎に原爆が投下され、そして終戦を迎えました。それから69年、日本は毎年8月、慰霊と共に平和を訴え不戦の誓いをしてきたはずです。
しかし21世紀となった今、「憲法96条改正議論」→「特定秘密保護法案可決」→「武器輸出三原則の見直し」→「集団的自衛権の行使容認を閣議決定」と進んでいます。また再び力による抑止力を強調する日本に舵がきられたわけです。

憲法改正に到達する前に、現行憲法でさえその解釈が時々の人によって如何様にも都合よく解釈することを容認し、既成事実の積み重ねによって憲法改正を「正 当化」するトリックのように見えてしまうのは気のせいでしょうか。この間の動きを冷静に客観的に見ると、さまざまな決定の間に起こる出来事を国民が真剣に 自分たちのこととして注視しなければ、取り返しのつかない過去の繰り返しになってしまいます。
 東アジアの緊張は、日中平和友好条約締結に至る協 議の中で、領土問題を大人の判断として棚上げしたものが、突然の“尖閣諸島東京都が購入”という当時の都知事の発言からその後政府は国有化に動き、日本が 一方的に領土問題を棚から引き摺り下ろした形になりました。シナリオ通りなのかもしれませんが、この時を境に日中関係は一気に悪化し、そこに日韓関係の悪 化や北朝鮮ミサイル問題が拍車を掛け、日本の防衛力強化が正当性あるものとしてアピールされています。

 街頭インタビューや世論調査で も、「ここまで中国や韓国に勝手なことされるんだから当然だ」という声が多数を占め始めたように報道されました。しかし、今私たち国民は周辺で起こる出来 事とは別に、日本国内の政治・経済・教育の変化に注視しなければ未来を見失ってしまうと思うのです。
集団的自衛権の行使容認に対する閣議決定は、戦後日本の歩みを根底からひっくり返す決議であるにも関わらず、国民に対する十分な説明もないばかりか国会での審議もセレモニー程度で議論は無いも同然、それらに納得しない世論の高まりがあります。

  言葉遊びのように「武器輸出三原則」が「防衛装備移転三原則」と変わり、早々にフランスとの兵器共同開発契約が成立し、首相の各国訪問時には経済界が同行 し各国にセールスを開始しました。武器の国際見本市にも日本のブースが当たり前のように設けられていました。その後、防衛装備ビジネスは着々と成立してい るようです。
福島第一原発の後処理も何も解決していない状況の中、東京は安全だと発言してみたり、国内での原発再稼働を進めようとし、世界に向けて日本は原発ビジネスも始めています。
先 月、沖縄返還をめぐる日米の密約文書の公開を求めた訴訟で最高裁の判決が出ました。この裁判は、情報公開法に基づいて政府(外務省、財務省)に文書の開示 を求めた元記者らに対し、政府が「文書はない」として非開示を決めたことを受けて起こされました。密約があったこと自体は米国の公文書や日本側の証言で分 かっており、これまでの一審二審でも日本政府も密約にからむ文書をつくったことは認めていました。最高裁も文書がかつて存在したことには言及したものの、 政府が「ない」という場合に「ある」ことを証明するのは原告側の責任だとした上で、証明できない場合、文書が存在するかどうかは、内容や作成の経緯などに 応じて個別に判断すべきだという結論でした。そして外交文書のようなデリケートなものには特別な事情もあるだろうから、一度はつくったものでも政府が「な い」という以上、「ある」とは思えない、というのです。

 一方で行政機関が文書を持っていることを証明する責任は国民にあるといいます。 他方、あったはずの文書がなぜないのか、誰がどのように廃棄したのかなどについての説明を行政側には求めないのです。これでは「ないものはない」という強 引な理屈で公文書の公開が妨げられることになるのではないでしょうか。
 3年前に施行された’公文書管理法’には「公文書は国民共有の知的資源と して、主権者である国民が主体的に利用し得る」とあります。今年年末に施行される“特別秘密保護法”を見ても、国家機密という括りで国民の知る権利が削が れていくように思います。憲法改正の筆頭に96条の改正を優先させることにも同じ恐さを感じています。
 平和憲法が簡単に変えられないように、衆参両院決議と国民投票というハードルを高く設定しているのが96条であると認識しています。それが時々の内閣によって憲法解釈が変わったり、憲法改正そのものの審議が見えないところで行われることなど、絶対にあってはなりません。
こんなことを述べていると、少林寺拳法は右だと思っていたけれど左なんですか、などと言われることがありますが、右でも左でもありませんし、中国の肩を持っているわけでもありません。
そ ろそろ人類が大きく進化しなければならない時期に、逆戻りしていることに憂い、自分たちにできることを模索しているのです。少林寺拳法は、力の抑止力とし ての強さを求める格闘技として生まれ育ったものではありません。世界の平和と福祉に貢献する人づくりを目的としていますから、身心一如の修養は他人や社会 の役に立つための力の養成であり、護身が最終の目的ではなく、あくまで人として生きていく上での必要な自信を養うためのものです。
「政治も軍事も 経済も、すべては人によって行われる。」だからこそ少林寺拳法の創始者は人の質にこだわりました。「俺がいちばん強い!」という俺が……俺が……の世界 や、自分たちさえ良かったら……という生き方をやめ、“半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せ”を’考え行動できる人づくりが平和への道筋だと考えていま す。

理想論だと言われるかもしれません。しかし21世紀になり、また再び力の抑止力で物事を解決しようとする考え方の膨張に、身を委ねているわけにはいきませ ん。知らない間に、または気が付かないうちに、外堀が埋められ、行く先が一本の道だけ……なんていうことにならないよう、駄目なものはダメ、嫌なものはイ ヤと言える勇気を養いたいものです。