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vol.27 今城隆廣 大導師大範士八段 122期生

2013/03/27

開祖のまねをしてきた人生、拳士は私の宝物
今城隆廣 大導師大範士八段 122期生

1939(昭和14)年6月、奈良県生まれ。1959年、大阪工作所に入社、同所少林寺拳法部に入部。64年、同部の2代目支部長となる。70年、同部を廃止し、奈良中央道院を設立。78年、大阪工作所を退社後、保険の仕事に携わり、後に株式会社保険ショップを経営。現在、同ショップ相談役を務める。奈良県少林寺拳法連盟理事長、本山・本部委員を初め多くの役職を歴任し、2010(平成22)年より名誉本山委員に就任、現在に至る。

今城隆廣 大導師大範士八段 122期生

1961年8月、本山の講習会で初めて開祖のお話を聞き、のめり込みました。世の中にこんなすごい人がいたのかと。開祖のお話は何時間聞いても飽きることがありません。以来、ほぼ毎年本山に充電に帰り、持ち帰ったものを道院で法話する、ということを繰り返してきました。私が話すことは全て開祖のまねなのです。よく開祖がおっしゃっていた「わしのまねをせい。生かして使え」という言葉が印象に残っています。そのまま、開祖から教わったことを忠実に実行し、いい意味で自分自身、変わることができたと思っています。私の宝は何かというと拳士です。開祖のまねをしてきてすばらしい仲間ができました。

つかみにいったら投げ飛ばされ……

つかみにいったら投げ飛ばされ…… 私は大阪工作所少林寺拳法部の出身になります。大阪工作所に本田修先生(故人)が入ってこられ、寮生を集めて少林寺拳法部をつくると聞き見に行ったのが始まりです。私は空手も柔道も初段を持っていましたので、先生の胸倉をつかみにいきました。とたん、ばーんと飛ばされ……突きにいっても軽くかわされる、握ったら抜かれる、これはすばらしいと感動し、即入門を決意しました。その時、本田先生はまだ四段で、大阪には大正道院と大阪工作所の2つしかありませんでした。生駒道院の高山恒一道院長とは同期になります。

当時は今と同じで6級からあったのですが、初段とるのに2年かかりました。乱捕りばかりしていたからです。剣道の胴でがんがんやるのがおもしろくて、もう技よりも乱捕りばかりしていました。それでいい加減、初段を受けよとなったのです。本田先生は小手抜きなどをノートに絵や説明を入れたものを作ってくれ、技を教えてくれました。

aun_tunagu_vol12_021961年に初段をとり、初めて本山の講習会で開祖を知りました。法話に引きつけられ「世の中にこんな偉大な人がおったんか」と心底惚れ込みました。開祖の法話はプログラムに1時間と書いてあっても1時間では終わりません。朝の鎮魂行の後、午前中いっぱい話だけで4時間は続きます。床へ座りっぱなしで足が痛いのですが、でも飽きることがないのです。以来毎年、欠かさず本山へ帰りました。
※ 門下生と指導者講習会にて 1965年頃

気づいたら道院長になっていた

気づいたら道院長になっていた 1度だけ帰山しなかった年があります。1966年のことで、三段でしたが、少林寺拳法も辞めようと思いました。というのは商売が好きで、寿司屋で「ラッシャイ」ってやろうと思ったんです。兄弟は皆会社員でしたし、独りくらい変わり者がいてもいいだろうと。しかし、親からは猛反対されましたね。本田先生と高山先生からも「少林寺拳法辞めたらあかん。やろうや」って言われ、考えたあげく、一生会社員で終わる覚悟を決めました。帰山しなかったのはこの年だけ、残念なことをしました。

aun_tunagu_vol12_03大阪工作所少林寺拳法部では本田先生の転勤により64年から私が支部を引き継ぎ、70年まで支部長を務めました。しかし、景気が悪くなるとともに部の存続が難しくなりました。会社の方針で新入社員の採用がゼロになり、やむなく休部届を出した時は辛かったですね。そしてその年、奈良中央道院を設立しました。生駒市には高山先生が64年に道院を出していましたが、奈良市にはまだ一つも道院がなかったことから始めました。

場所探しは苦労しました。横田仁先生(元東大阪中央道院道院長)が本田先生と仲良かったこともあり、わざわざ奈良まで来て一緒に道場を探して歩いてくださいました。当時は学校の体育館などとても貸してもらえません。ちょうど建設されたばかりの公民館の中に柔剣場ができたので談判に行きましたが、「柔道、剣道でないと認めない。少林寺拳法は教科書に載っていない」と最初は断られました。たまたま私の母が婦人会の役員をやっていたため、今西五一市会議員(故人)のお力添えをいただき場所が確保できました。

その後、近くの体操教室から場所を使いませんかとお声がけいただき、専有道場を持つことができました。私は恵まれています。感謝するばかりです。

少林寺拳法を始めたころは道院長になるつもりはなかったですが、こうして気づいたら道院長になっていました。
※ 入門式 1975年頃

開祖の逝去に声を上げて泣いた

大学講習会の指導のため本山に帰った時、開祖から「おう、今城か。ごくろうさん」と言ってもらえた時はうれしかったですね。私の名前など覚えていないだろうと思っていたのでびっくりしました。

指導者講習会で開祖に整法をしていただいたこともあります。講習会では1日整法の時間があるんです。その時私は腰が痛かったので舞台に上げられ、皆の前で腰を治してもらいました。また、本田先生の代理で京都別院に行ったときは、開祖と1対1でお話させていただきました。他にも講習会で開祖の手を持って階段をあがったときのことなど、思い出すといろいろ出てきます。緊張して手を突っ張ったままバーッと階段をあがっていったものですから、「上げ過ぎだもっと下ろせ」って言われたのを覚えています(笑)。四段受験のときには、開祖から逆小手や送小手をしっかり指導していただきました。

開祖が亡くなった時、私は奈良県少林寺拳法連盟の理事長をしていました。訃報を聞き、高山先生と篠田先生(故人)の3人で夜中に車で駆けつけました。白い布をめくり開祖の顔を見たとたん、泣きましたね。父に逝かれたときは泣かなかったのに、開祖の時はおうおうと声を上げて泣きました。一緒にいた先生方に今でも言われるくらいです。開祖はそれほど大きな存在でした。私にとって父親以上の存在だったのです。

開祖と出会い、いい意味で人生が変わりました。ボクシングや空手を習い、喧嘩ばかりで親を泣かせてきた人間が、いい意味で変われた。少林寺拳法と出合っていなかったら今の私はありません。

aun_tunagu_vol12_04金剛禅運動=幸福運動

金剛禅運動=幸福運動 私は宗教なんてくそくらえと思っていた人間でした。ところが本田先生の話を聞き、なるほどと納得させられました。あの頃はまだ世相が不安定で、喧嘩くらいでは警察も気に留めません。ですから自分の身を守るため、強くなるため、喧嘩の道具として突いたり蹴ったりを考えていました。

しかし、少林寺拳法は単なる武道やスポーツではないと教範にちゃんと書いてあります。子どもにも分かりやすく言うと、金剛禅総本山少林寺は心の修行をするところです。「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」という教えはその通りで文句のつけようがありません。喧嘩だけ強くなったらいいかというとそうではないのです。心の修行で人生が変わりだします。私自身、変わりましたから。金剛禅運動は幸福運動、自分も周りの人も幸せになる運動なのです。

お金はあまり持っていませんが、私の宝は何かというと拳士です。仲間、よき友です。人生が変わり、信念が定まって歩いていったら、いつの間にか周りに人の輪ができていた。よいものは広めたい、だから今も金剛禅運動に邁進している。これにつきると思います。
※ 1973年、道院で学科を指導している場面

修行に終わりはない

すべて開祖のまねをしてきました。開祖の「わしの真似をせえ。真似といったら腹が立つから活用せえ」という言葉が印象に残っています。活用という言葉が気に入り、開祖から教わったことを忠実に守り、皆に伝えてきました。少しでも開祖に近づきたいという思いでやってきました。しかし何年かかっても開祖の足下にも及びません。だから修行なんですね。

もっともっと開祖のそばにいた古参の先生方から、開祖の思い出や体験談を語っていただく機会があったらいいのにと思います。私も話をするときは自分の体験で話をしますよ。これも開祖の行動の真似です。今も大きな事件があると開祖だったらどう思うのだろうと考えます。後進に伝えたいことと言うと、開祖の話しかありません。私は開祖の真似をしてすばらしい人生、すばらしい仲間に恵まれました。

少林寺拳法は宇宙と一緒で終点がありません。修行に終わりはないんです。 私にできたのだから他の人にもできない訳がない、これに尽きます。魅力があるから修行を続ける。そして、他人から見ても、また自分自身も変わっていくのが分かる。このすばらしさを伝えていきたいと思います。