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vol.43 須臾(すゆ)も離るべからず

2015/12/01

 開祖が少林寺拳法の創始を説明する中で「中国在留中に学んだ北禅や道、儒等の宗教の中から感じとった真理を精神的中核とし」(「少林寺拳法教範(上巻)」新版序、3頁ページ)と明記しているように、金剛禅の教えには、初期仏教を支柱として、そこに道教や儒教が溶け込んでいる。そのことが具体的に見えるのが「道は天より生じ……」と始まる「道訓」である。「道訓」の言葉には、仏教的な用語よりも、道教、儒教を背景とした用語が目立つが、私たちは仏教、道教、儒教などが渾然一体となった教えを、金剛禅という「拳を主行とする新しい道」(「教範」30頁)として、丸ごと受け入れることが大切で、教えの背景を分析的に区分けしていくような知的作業は刺激的で面白いが、教養を深める程度にとどめて(底知れぬ深さであってもよいが)、深みにはまらないようにする必要があるだろうと思う。
 例えば、『大漢和辞典』で高名な諸橋轍氏は、『孔子・老子・釈迦「三聖会談」』(講談社学術文庫)によって、この三聖の説いた教えの重なるところ、違うところを、仮想的な会談を設定して分かりやすく浮き彫りにしてみせた。諸橋氏の筆によるこの小さな本は、東洋思想の原風景の奥行きを魅力的に描いた力作であると思う。とはいえ、この本が示す三聖の教えの差異と共通性をある程度理解しても、あるいは更に広く専門的な知見を求めても、周辺的、文脈的理解が深まるだけであって、金剛禅の教えそのものを生きることとは別であると言わざるをえない。
 さて「道訓」に戻る。「道訓は、金剛禅門信徒の実践綱領というべきものであり、金剛禅の示す道――ダーマの分霊としての自己確立、自他共楽の理想境への具体的な道である……」(「教範」148頁)と示されており、自分が生きている日常生活の中で教えを実践していくための道標である。
 「道訓」の構造は、前半が実践への心構え、後半が具体的実践の指針とまとめからなっている。前半には、道を踏み外すことへの用心として、「その道を失すれば、即ち迷離す」という箇所と、「仁、義、忠、孝、礼の事を尽さざれば、身世に在りと雖(いえど)も、心は既に死せるなり、生を偸(ぬす)むものとゆうべし」という箇所がある。前者の言葉は、正しい道をまっすぐに進んでいるつもりが、気付かぬうちに道から外れ迷ってしまう危うさを突きつけている。後者の言葉は、儒教的色彩の強いこれらの徳目を社会生活の中で実践し生ききるのでなければ、「命泥棒」に堕してしまうという警鐘である。
 この「拳を主行とする新しい道」は、「ダーマの分霊としての自己確立、自他共楽の理想境への具体的な道」である。拳を鍛え錬ることの魅力に惹かれるあまりに、その道が向かう先を忘れてしまうことがあれば、それは道を進んでいないことになる。逆に、道が向かう先ばかりを見て急いで進もうとしても、拳の修練を着実に重ねていなければ、その道には土台も中身もないことになる。道を進んでいると思い込むのではなく、先を急ぐだけでもなく、八方目を駆使しながら、この道を離れることなく確実に進むことが肝心なのである。
(江別大麻道院 道院長 野坂 政司)
志43